「深木さん、どうぞ」
近くの引き戸が開いて、看護師が声を掛けてきた。
「行ってらっしゃい。また後で迎えに来るから」
赤森はそう言って深木が不安そうに診察室へと入っていくのを見送った。深木は診察室ではいたって普通の検査を受けていた。ただ少し、年齢にしては検査項目が多いというだけで、深木がこれまで普通の医療機関を受診するのを避けていた為にそれらの検査に慣れていない事を除けば、全く何の問題もなかった。深木の体質についても、赤森と連絡を取った際に彼が了承したため医師は既にある程度把握しており、理解を示す態度を取ってくれたため、彼は戸惑いながらも次第に安心していった。項目が多いので時間はかかったが、存外スムーズに検査が進み、終わる頃には彼はやはり検査を受けに来てよかった、と感じていた。
「うーん……」
時は遡り、深木がちょうど赤森の連絡を受けた頃。彼は難しい顔でスマホを見つめていた。
「深木くん、久しぶり。あのとき一度は遊びに来るのを断ったけど、やっぱり来ない?」
赤森からの1通目のLINEだ。
「でも、なんだか変な研究をしてるんでしょ?」
と深木は返信した。赤森には世話になったが、わざわざおかしな研究所に行く理由はない。しかし、
「うん、まあ、研究の事はあんまり気にしなくていいんだけど、深木くん、なかなかその辺の病院にかかれなさそうだから、うちならちゃんと深木くんの体質に合わせた検査をしてあげられるかなって。治験扱いってことで、ちょっと報酬も出るんだけどどうかな」
と、赤森は返してきた。
深木は、この1通のLINEを見て急に迷い始めた。もちろん、怪しいとは思った。そんなうまい話があるものか、と思いはした。しかし、彼は4人兄妹の長男で、出自も相まって家庭環境は決して恵まれたものではなかった。本当に検査が受けられて家族の生活費の助けにもなるならまさに渡りに船。仮に何か裏があったとしても、リスクを冒す価値のある話だとも感じた。
「そういうことなら、ちょっと行ってみようかな」
深木がそう返信したのは、提案された次の日の夜中のことだった。元来の疑心暗鬼が災いし、散々に悩み抜いて行った決断であった。
そして、深木が検査を受けている間の事。デスクワーク中の赤森の胸ポケットに振動が走る。業務用のスマホに着信があったのだ。
「はい、赤森です」
赤森が電話に出ると、
「どう? 彼が到着したところまでは聞いたけど、それから順調かしら」
電話を掛けてきたのは名治子だった。二人はその後、
「順調ですよ。今一通り検査してます。本当は私が立ち会えば手っ取り早かったんですけど」
「まあ、彼は年頃の男の子なんでしょう? あちこち検査されるのに知り合いのお姉さんがいると気の毒だから……けど本当に少し工夫しただけで来てくれたのね。まあ、これも一種の交渉の結果ってことになるんでしょうけど」
「確かに先生が提案したとおりに言ったらうまくいきましたけど……私としてはやっぱり心が痛みますね。別に嘘ついてるわけじゃないですけど」
「大丈夫。あなたの言う通り一つも嘘はついてないし、結果的に彼の助けになるのだから気に病む事は無いわ。じゃあ、あとは脳波検査のときに一報入れてちょうだいね。夕方から会合でここを出なきゃいけないから、後の事はよろしく頼むわ」
と会話をして、名治子が電話を切った。赤森はふぅ、と少し息をついて自分の仕事を再開するが、これから起こることを思うと気が気ではなかった──
「はい、あ、わかりました。今から行きます」
赤森にまた電話がかかってきた。今度は検査を担当した看護師からだった。深木の検査が一通り終わったのだ。最後に別室で脳波検査を行うのだが、今日は赤森が深木を案内するよう申しつけられていたので彼女はわざわざ診察室へと戻っていった。
「お疲れ様。どうだった? 緊張したりしたかな」
赤森は検査を終えて出てきた深木に話しかける。深木は、
「大丈夫だったよ。採血とかは、ちょっと苦手だけど……けど先生も優しかったし、思ってたより全然不安じゃなかったな……」
と少し照れながら言った。赤森はというと、
「……そっか、よかったわね。じゃあ、最後に、脳波検査に行きましょう。検査室はあっちだから、ついてきて」
と、少しうつむき加減で静かに言った。深木はどうしたんだろう、と思ったがここまでの検査が問題なく行えたので、特段不安には感じなかった。そして2人はまた廊下を歩き、エレベーターで1つ上の階に行って検査室に辿り着いた。
「ここだよ。もう、準備はできてるから入って大丈夫だけど……その……」
赤森は何か言い淀んでいた。
「どうかしたの? 入っていいんでしょ?」
深木が尋ねてきた。
「う、うん。その、脳波検査は結構時間がかかるから……辛くなったら担当の人に言ってね」
赤森がそう言って心配そうなまなざしを向けてきたので、深木はせっかく検査が順調だったのになんだか急にまた不安になってきた。だが、わかったよ、とだけ言ってもう脳波検査室に入るほかない。赤森は扉が閉まるまでその様子を見つめて、それから言いつけ通り名治子に電話をした。
「先生、今脳波検査室に入りました。私は……どうなっても知らないですからね、本当に」
赤森はそそくさと、できるだけ検査室から離れていきながら名治子に言った。
「わかりました。ありがとう。わたくしはそちらに向かいますから、あなたは普通に業務をしていて結構ですよ。お疲れさまでした」
名治子にとってそれは業務連絡でしかなかった。が、それからわずか数分後のことだった。けたたましい非常ベルの音が静寂に包まれた研究所を支配した。耳を刺す大音量のアラームの中に避難のアナウンスが流れる。事態が発生したのは、脳波検査室だ。
「緊急事態発生、緊急事態発生。職員は直ちに屋外に退避してください」
アナウンスが繰り返されるが、職員は誰も屋外に出て行かない。今日のアナウンスは避難訓練だ、と職員の誰もが聞かされていた。
「離せ!!! ウワァアアアアアアアア!!!!!」
脳波検査室の中からは猛獣の雄たけびのような咆哮が響いている。絶えず聞こえる怒声とバタバタとした物音。名治子は電話を片手にそれを聞きながら、少し遠くから検査室のドアを眺めていた。
「はい。はい、手筈通り。もちろん、五点拘束で構いません。鎮静剤は可能な限り早く打ってくださいね。ええ、バイタルは常にモニタリングしてください。拘束が済んだら警報は切ってください。個室に移送し終ったらわたくしが向かいますから。ええ……わかりました。お疲れ様です。では後ほど行きます」
名治子は誰かと電話で話していた。
……視える。あまりにも巨大であり、異様な都市のような何かが。鋭角でありながら鈍角に振る舞う狂った幾何学形状の、毒々しい色の巨石が無造作に積みあがった建造物の群れ。それらが荒れ狂う空に向かい、深き海の底からせり上がっていく様が。嗚呼、これは誰の夢だ? 一体、これは何だ? これは……これは、僕の夢ではない!!!
「ハッ!!」
101、98、94、90、91、90……脈拍に合わせ、ピッ、ピッ、と鳴る機械の音。手足は拘束され、動かせない。かろうじて動く首を横に向けると、左腕には点滴の針が刺さり、人差し指の先は何かクリップのようなもので挟まれている。胸にはシートが張られているようだ。反対側に目を向けると……自分の右手は青く、水かきのある異様な形状に変化しかけていた。
「……」
少年はそのままがっくりと脱力した。ここまで、何の問題もなかったのに。人間のまま、普通に検査を受けていたはずなのに。深木の体は3分の1ほど、「深きもの」に変化しかけていた。やってしまった。何が起こったのか自分でもわからないが、自分が「発作」に飲まれたということだけは分かる。鎮静剤の効果もあってか、状況を理解し落ち着いてくると心拍数も下がっていったが、無力感と情けなさでもはや指一本動かす気にならなかった。彼がしばらくそうしてぼんやりと身じろぎ一つせずにいると、
「こんにちは、あなたが深木君ですね」
部屋の入口の方から声がした。うつろな目のまま振り返ると、そこには緑色の短い髪をして、左目が前髪で隠れている一人の女性が立っていた。
「お休み中失礼しました。わたくしはこのラボに勤める、那次名治子といいます。どうぞよろしく」
名治子は部屋の入り口に立ったまま、微笑みながらそう語りかけた。