小さい花

 前略、Najikoです。日記を書き始めるとあんまりいい話じゃないわたくしですが、今回も例に漏れません。

 少し前ですが、飼っていた猫が1匹亡くなりました。以前記事に書いた、FFXから名前を取ったワッカという猫の姉にあたる、老いさらばえた黒猫のルールーです。

2匹はいつも仲良しでした。

 彼女は19年も生きました。正直、生まれたときから未熟児のようで、ワッカより先に寿命を迎えてしまうだろうと思っていましたが、弟より2年半ほど長生きしました。弟、と言っても猫ですから生まれたのは同日です。ただし、ルールーはお産の直前に歩きながら母猫が生み落とした子で、母猫が羊膜を破って舐めてあげることをしなかったため母猫に認知されていませんでした。死産かと思われましたがわたくしが当時「今動いた」と言ったことで、わたくしの父と母が懸命に保護し、結果的に小さいながらも健康な猫に育ったのでした。母猫に認知されていなかったため、母乳を飲ませてもらえず前足で払われたりと不遇な幼年期を送りましたが、猫は1年で成猫になるもの。1歳になる頃には小さいながらもしっかり健康なメスの黒猫に育ちました。

 彼女もまた、他の猫同様わたくしによく懐きました。母猫に似て非常に頭がよく、押し下げるタイプのドアノブはジャンプして開けられるし、高齢になってもずっと、要求があるときは人間に向かってしっかりと何かを訴えるように鳴く猫でした。また、これも母猫に似ているのですが人間の食べ物を欲しがるので魚を焼いた日などは持っていかれないように気をつけなければなりませんでした。しかし、今やその心配もありません。もう彼女はいないのです。うちでは他にまだ2匹猫を飼っていますが、かれらは人間が魚を焼いても興味を示さないし、夕方お腹が減っても鳴いて訴えてきたりしないので、正直言って寂しいです。体は小さかったけれど、存在感は大きい猫だったわけです。

 わたくしが子どものころから生きていた大事な家族。わたくしがどんなだらしない大人になっても、彼女もまたワッカ同様にずっとわたくしに寄り添ってくれました。それが年老いて、亡くなる前にもなれば元々小さかった体はいよいよ痩せ細り、だんだんと物も食べられなくなり弱っていきました。亡くなる当日の朝は、もはやわたくしの呼びかけも聞こえていないような様子でしたが、わたくしは勤務なので出勤しなければなりません。その日の昼休み、家にいる母に電話をかけるのをためらっていると母の方から電話がかかってきて「そろそろ危ないかも知れない」と言われました。薄々覚悟はしていましたがいよいよまた嫌な現実を受け入れる段階に来てしまったな、と思いつつ、仕事を終えて退勤すると、彼女はわたくしがいつも使っているこたつの下に横たわっていました。まだ息はありましたが、その時は今夜越せないかも知れないな、と考えていました。わたくしは彼女を撫でながら家に帰ってきたこと伝えると、もう目も耳も利いていないような素振りでしたが、彼女は手足を動かして立ち上がろうとしていました。わたくしは少し抱き寄せてやりましたが、姿勢も保持できないので横にしてあげて、もう頑張らなくても大丈夫だと伝えました。それからしばらくして、体を撫でているともう一度手足を動かしたので、再度呼びかけるとやがて呼吸が止まり、静かに息を引き取りました。母は日中、(わたくしが)帰ってくるまで頑張りなさい、と呼び掛けていたそうですが、実際に彼女はわたくしが来る場所で、ずっと待っていました。反応は鈍かったものの、多分彼女は母の言ったことを理解していたと思います。犬はよく、あまり賢いせいで別れが余計に辛くなるといいますが、猫も一緒です。

 翌日、車で火葬してくれる業者に頼んで火葬してもらいました。ワッカを火葬したときと同じ業者です。しかし何やら予定が混みあっているらしく、夜の10時まで待たねばなりませんでした。わたくしは休みを取っていたので、日中は冷たく硬くなった彼女を見て触って、名残惜しんでいました。火葬の際には体を清めて、口を濡らしてあげて、前足に数珠をつけて、一緒に火葬するエサや布のオモチャも置いて……最後に、彼女の長い尻尾を体の方に寄せてあげましたが、死後硬直しても尻尾は硬くならず、生前と同じような感触だったのが忘れられません。骨も拾って、骨壺に入れてもらいました。小さく高齢の猫にしては立派な骨格だったそうです。雪の降る、寒い夜でした。

 今は骨壺をワッカのものと一緒に並べて、写真を置いて、花を添えています。今日もわたくしは小さな花を買ってきて小さな花瓶に差しました。小さくて可愛らしい花を見ていると、ルールーも小さくてかわいい猫だったことを思い出してとても悲しい気分になりました。彼女のための花なのに、複雑な気分です。でっかくて立派な花よりは、彼女の小さな前足でちょいちょい揺らせるような小さな花の方がきっといいだろうな、と思ったりもしましたが、考えてみれば虚しいものです。死んでいなくなってしまった者にしてあげられることなど、もうないのです。宗教の教えなんかは信じなければわたくしには何の関係もありませんし、生前のことをいくら悔いても同様に意味がありません。それでもわたくしは花を買って添えました。一見矛盾しているようですが、多分それはわたくしを愛してくれた家族への感謝を忘れないようにするためには必要なことなのだと思っています。願わくば彼女が、死後ワッカと再び巡り会えていればいいなとか、わたくしも将来あの世ではもう一度会えるのだろうかとか、考えないではないですが、それを心から信じられるほど21世紀は暖かな時代ではないでしょう。けれど、別にいいんです。少なくともわたくしが生きている限りは、一緒に過ごした家族の思い出と感謝の気持ちは失われずに済むのですから、きっとそれだけで十分なのだと思います。こうして書き残しておけば、ブログがある限りは読み返して思い出すこともできます。

 ありがとう。さよなら、わたくしの大事な家族。もうきっと会えないけど、一生忘れないからね。

怱々。

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