おはこんハロチャオ、Najikoです。
この前ナンジャモのカードがショップに展示されているのを見ました。あれいくらするんだろう。
ゲーム、やってますか? わたくしはやっています。
けどずっと、ゲームに対して考えていることがありました。あれはわたくしが高校生の頃、クラスメイトのすごく勉強ができる男が言った一言。
「ゲームなんて現実から逃げてる奴がやってるだけじゃん。何の意味もないよ」
うん。お前コロコロコミックとかに出てくるホビーアニメの悪役かよ。
しかし彼は実際成績優秀、スポーツ万能、将来有望な「できる」人材でした。あの後どうしたかは知らないけど、どうせ国立大学に入ってうまく立ち回って優秀な社会人になっているに違いありません。
そんな言葉を聞いても、わたくしはゲームが好きでした。確かに彼の言う通り、ゲームをする時間を他の何かに充てていれば何か成し遂げられたことはあったかもしれない。お勉強がもっとできたかもしれないし、スキルを身に着けていたかも知れない。でもわたくしは「現実から逃げてる奴」で、凡庸で、上手くもならないし何も得られないゲームに対して時間を浪費してきた……と、最近までは思っていました。
実際のところ、ゲームからは何も得られないのでしょうか。これを読んでいるあなたはゲームをして、何かを得たと断言できるでしょうか。まあ、できなくても大丈夫です。それは既に自分のものになっています。
そう、ゲームをして得られるもの。それは「体験」です。物質的な何か、役に立つ知識などではないかも知れませんが、ゲームをして得られる「体験」はゲーム以外からは得られません。まあ例えば、映画を見たり本を読んだり、といったことでゲーム体験と範囲が重なるなんらかの体験をすることはできると思いますが、ゲーム体験はそれとは一つ別の「操作」という次元を持っています。
一人でゲームをしていたとしましょう。ゲームは、クリアに向けて何らかの操作をしなければなりません。極端な話、セリフを送るだけのノベルゲームだったとしても「セリフを送る」という操作(あるいは起動してオートボタンを押す操作)をしなければクリアには至りません……いやまあ、本当にそれだけだったら動画の再生ボタンを押す操作と特に変わりないのでアレですけど、実際には一般にイメージされる「ゲーム」であればノベルゲームであっても選択肢があったり色々あるでしょう。アクションやRPGであれば当然、主体的な操作なくしてはゲームは成り立ちません。
この選択や操作がゲームを進めていく、という体験は他ではなかなか得られません。それだけでなく、ゲームにはもう一つ、それらを人と共有できる、という魅力的な体験も存在しています。
「俺あの装備で行ったら全然勝てなくてさー」
「マジで? 俺はこっちの武器で行ったらさ……」
なんて、楽しい会話ですよね。マルチプレイできるゲームならさらに体験を共有できるでしょう。
学生の頃わたくしは、モンハンとかやってましたけどね、そのときの体験って忘れられないし、いい思い出だし……結局今でも、ゲームをしてるってことは「自分で操作して面白いと感じる」「同じゲームで体験したことを共有できる」ということなんですよね。だからホビーアニメの悪役の彼は、きっとエリートにはなったのでしょうけれども、ティガレックスを4人で囲んで悪戦苦闘する体験も、孵化厳選して手に入れた色違いのポケモンを友達に自慢する体験も、「END」の文字が画面に出てる中歩き回る体験も、することはなかった。彼にとってはそれらは価値のないものだったんだと思いますが、どうでしょうね。それがいいことなのかどうかはわたくしにはわかりません。
ともかくまあ、ゲームは「体験」を売り物にしているという簡単なことに気づくのに随分と時間がかかったような気がしますが、そう考えると最近のゲームってどうなんだろう、と考え始めます。
ソシャゲの多くは、金と時間を可能な限り効率よく搾り取っていく代わりに相応の体験を返す、という構造になっているはずなのですが、実際のところはどうなのかと考えると……
あくまでここは個人の感想なのですが、わたくしにとっては「ガチャ」という概念自体が「金を突っ込めば何とかなるのかもしれないけど金がないからどうにもしようがない」という最低最悪な体験をもたらすものなわけで、これが根底にある時点でだいぶ体験としては終わってて、「金かけないでも手に入った!」と言えばガチャ煽りになり、「金かけてようやく手に入った!」と言えば「いいですねお金あって」となるので根本的にわたくしとは相いれないわけです。
一方ソシャゲの体験の一番おいしい部分というのは「ライブ感」だと思ってて、まず最先端コンテンツまで遊んだら、アプデで新しいコンテンツが来るのを待ちながら「次はこうかな」「楽しみだね」とプレイヤー同士でワクワクしながら待つあの感じ。あれこそが他のゲームにはない体験だと言えると思うのですが、実際にはバカみたいな量のコンテンツとバカみたいな手間のかかる育成、バカみたいに金をかけさせるバランス調整で最先端コンテンツまでたどり着けず息切れして終わることを繰り返しているので、これだったら結局「体験」としても悪く、人と共有することもできないので「意味がない」と言ってしまっても差し支えないような状態だな……と思ってしまいます。
ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んだことがあるでしょうか。

このモモとは関係ありません。トリッカルは「ガチャ」が緩い上に操作は楽なのでよいゲーム体験ができています。
で、「モモ」には時間泥棒という組織があり、素朴な町で暮らす人々の時間を買い叩いていきます。すると、牧歌的な暮らしをしていた町の住人たちは金を手にする代わりに余裕がなくなり、常にあくせくしながら働くようになります。すると次第に「モモ」も相手にしてもらえなくなえり……といった話だったと思います。大学の社会学の講義で取り上げられたりします。労働と資本の概念についてですね。
時間泥棒は時間を奪う代わりに金を寄越していますが、ソシャゲは金も時間も両方奪っていきます。そして、それに見合う「体験」を寄越しているかは……まあ、それは各人が判断することでしょうが、ただでさえ我々は「労働」という名の現実の時間泥棒に支配されているのですから、時間泥棒からもらった金と残った時間までソシャゲにもぎ取られていくのはなんともアポカリプスアポカリプスしすぎてるんじゃないかな……と思ったりはします。
まあ、ソシャゲの悪口はともかくとして、それだけ「ゲーム」というのは「貴重な時間を体験に変えるもの」であることがわかってきたわけですが、うん……どうでしょうか、あなたが今やってるゲームはちゃんと「いい体験」を返してくれているでしょうか。せっかく時間をかけて遊んでいるのに、作り手側が作りたいものだけブワァーっとお出しされて中身が散々だったら、貴重な時間が悪い体験に変わってしまいますよね。だからなんだろうな、こう……これはゲームに限ったことじゃないでしょうけど、時間を使って消費するタイプのコンテンツを提供するのって、結構責任重大ですよね。という気持ちと、それを過剰に気にしていると一向に作品を世に出せなくはなるよな、という気持ちとがあり、複雑なところです。

VRChatはゲームじゃなくてSNSだとか、いろいろ言われることがありますが、SNSであるにせよゲームであるにせよ、共通のプラットフォームを通じて体験を共有する場であることには変わりありません。ゲームワールドにせよ、イベントワールドにせよ、なんにせよ……この「体験」の質について考えられることって色々あるし、そこを「極限まで突き詰めていった結果」を我々は既に、体験していますよね。2021年のあの「夏」に……うん。まあ、そんなところです。本当にいいコンテンツって、近くて遠いな、と思います。
ではわたくしは時間泥棒からお金をもらいに行ってくるのでこの辺で……