緑青の跡

 この空間にナジコが落下してから、どのくらい経過したかを彼女はとうに認識できなくなっていた。地上でアバターの研究を行った結果、複合改変義体である「たまなつ」を世に送り出した彼女だったが、ある時ふとした拍子に時空の裏側に落下してしまい、それから実に現実時間でいうところの█年以上の時が経過していた。
 「……」
ナジコは一言も発することなく、ただただ階段を上り続けていた。彼女はここがどこなのか、知識としては理解している。それは俗に「The Backrooms」と呼ばれる異常空間であった。地上では出口があるともないとも言われ、人の命を脅かすエンティティの存在もまたあるともないとも言われているが、彼女は残念ながら両方”ない”ことを身をもって証明していた。短かった緑の髪は今や地を這うほどに長く伸びている。それは彼女が生きている証拠であり、危険な何かによって原型を損うことなく現在まで過ごしていることの証左であった。しかし同時にそれは、それほどの時間を費やしてもなお出口というものに辿り着けていないことを示すものでもある。

 はじめに彼女が落ちたのは「Level0」と呼ばれる空間だった。黄色い壁と湿っぽいカーペット、そして耳にも目にも障る蛍光灯の音と光だけが無限に広がる空間だ。本当に、そこにはそれ以外に何もなかった。幸いと言うべきか、彼女は現在まで時空の裏側で過ごしている時間全体に比べればLevel0からの脱出にはそれほど長い時間を費やさずに済んだ。非常口を発見した時はまさに高揚のピークであったが、それが絶望から絶望に繋がるだけの扉だったことをそのとき彼女はまだ気づいていなかった。非常口の先は「Level1」と呼ばれ、俗に生存可能領域と言われている空間だった。そこはコンクリートでできた立体駐車場のような空間で、Level0よりは静かな上に、ランダムに現れる木箱の中には人間が摂取できるものが入っていることもあるのだが、ただそれだけだった。結局のところ、ここにも明確に出口と言える場所はない。それどころか、Level0に戻る道さえ存在していなかった。

 彼女はLevel1でかなり長い時間を過ごしたが、次第に気が付いたことがあった。木箱から物資など回収しなくとも、何も摂取しなくとも、彼女は死ななかった。否、死ねなかったのである。ここではいくら長い時間飲まず食わずでいても、死ぬことがなかったのだ。それに気が付き始めた頃には彼女はとっくに正気を失っていたし、できればどこかで野垂れ死んでおきたかった。彼女にはわざわざ生きて外に出る理由などもはやないからだ。表側の世界で彼女は行方不明になっているであろうが、実はナジコはラボに自らの意識、記憶、人格、肉体全てのバックアップを残してあり、こういった場合にはバックアップが基底現実における「ナジコ」として活動を継続するようにしてある。だからもう、表側の世界ではとっくにナジコが普段通りの暮らしをしているのである。それを見届けてから、という気持ちも初めはないではなかったが、今やそんなことはどうでもいい。ただただ、この不要な意識の連続を断ち切りたい。この空間から自分を抹消して楽になりたい、彼女はそれだけを考えて歩き続けていた。

 だが無情にも、この空間はそれを許さなかった。高所から落下しようとも、頭を打ち付けようとも、痛み以外のものは得られない。気を失ってもしばらくすると目が覚める。ここには「死」すら存在していないというのか。できればもう、考えることをやめてしまいたかったのだが、気は狂えども意識を失うことがないため、彼女は歩き続けるよりほかなかった。Level1からも「ハブ」と呼ばれる空間に繋がる通路が稀にあり、その度にハブを通じて彼女はいくつかのLevelを通過したが、結局のところ何もない場所を歩き続けることには変わりなかった。実際には何もないわけではないが、どのみち誰と遭遇することもなく、徒歩で他の空間に向かって行くだけの道筋に存在するのは単なる壁と障害物でしかなく、何の意味もない。

 途方もない時間の先で、彼女はそれまでとは文字通り次元の全く違うある場所に迷い込んでいた。どのようにして侵入したかはわからない。突然地面がなくなったのかも知れないし、ハブの扉に吸い込まれたのかも知れないし、他の何らかの道の先がここだったのかもしれない。もはやそんなことを彼女はいちいち知覚していないはずだった。しかし、
 「ハッ……!」
このとき彼女は、にわかに正気を取り戻した。それは、希望が見えたからではない。何も考えずに迷い込んでいた空間が、今までのどこよりも異常だったからだ。そこには螺旋階段があった。だが、色がない。いや、厳密にはこの空間は「終わり」の色をしていた。それが彼女の脳には知覚できないため色がないように見えていた。そして、ここにはただただ、1個の螺旋階段があるのみなのだ。彼女は正気になった瞬間には螺旋階段の上に立っていた。そして、一段ずつ登ること29段、そこで階段は一周する。だがこの29段は永久に続いていく。上にも下にも、ただただ終わりのない終わりが広がっている。それを理解した時、彼女はひとしきり声にならない声で蚊の鳴くような叫びをあげた後、再び正気を失いただただ階段を上り続け始めたのだった。

 それから█年が経った。この空間に時間の概念が適用されるのであれば、の話だが。階段を上り続けていたあるとき、何か彼女は視覚に異常をきたしていることに気がついた。29段登って一つ小さな踊り場を通過しようとしたときのことだ。何か、終わりの色をしていない何かが彼女の視界に入っていた。だが、気に留めるでもなく歩いていると、知らないうちに彼女はそれにぶつかっていた。
 「痛いじゃない。何か言うことはないの?」
声がした。声だ。いや、声ではない。声であるはずがない。今までに幻聴ならば耳が壊れるほど聞き飽きた。その一つに違いない。無意識にそう判断した彼女だったが、体が前に進まない。そこには物理的に何かが立ちはだかっている。そう、物理的にだ。
 「えい」
その声と同時に、何かふわふわとした感触の物に顔を撫でられた。すると彼女はまたにわかに正気に戻り、
 「あぁっ!!」
と声を上げた。目の前には、自分の身長よりもなお高い、青空を切り取ったような美しいブルーの羽根とドレスを纏った何者かが立っていた。
 「初めましてだったかしら?」
その何者かは、短い髪の女性の姿をしていた。ナジコはひどく混乱し、頭を両手でかきむしって再び正気を失いそうになっていたが
 「まあまあ、落ち着いて話をしましょうよ。あなたがそんなだと面白くないじゃない」
女性はそう言うと人間でいう腕の部分を覆う大きな羽を顔に押し当ててきた。
 「うぅ……」
ナジコはそれでまた正気に引き戻された。羽の感触は心地よいはずなのだが、ひどい気分であった。
 「貴女は誰なの。ここはどこ? 私は……わたくしは……何故、死ねないの?」
ナジコは尋ねた。それを聞いて女性は穏やかな笑みを浮かべ、
 「私はミルヌーヌ。あなた達の言うところの上位存在ね。それもとびきりのよ? だからこんなところに来てるんだけど……ここはね、『終わり』なのよ。永遠の命を持つような存在はみんないずれ必ず、ここに辿り着く。だけどここには何もないから、誰も出られない。どこにも行けない。かわいそうよね。私もね、あなたと一緒なのよ。私の『本体』は当然、こんなつまらないところにはいないのだけど、端末の私は結局一度はここに辿り着いてしまうのよね。ふふ。それで、あなたが死ねないのはまあ、そうね、本当に偶然なんだけど、見えてしまったのよね。あなたが最初に『落ちていく』ところが。そのとき、そのうちまた会えるような気がしちゃったの。ごめんなさいね。私がそう思ったら『私に遭う運命』を持ってしまうものなのよ。そこから『逆算』したら、あなたが死ななくならないとつじつまが合わなくなった、というだけの話。私が自分の意思で何かしたわけじゃないのよ。確かこういうの、『罪な女』っていうんだったかしら? 面白いわよね」
と言った。ナジコはさっきまで正気を失いかけていたことを抜きにしても、ミルヌーヌの話には何一つ納得できる要素を感じられなかった。
 「……いいわ、もうなんでもいい。いいのよね? 貴女にここで出会ったんだから、つじつまとやらは合ったんでしょう? じゃあもう、終わらせてくれて……」
だが、そこまで言ってナジコの脳裏に、一人の少女の姿がよぎった。長い緑の髪に、猫の耳と尻尾を持つ少女の姿だった。
 「たまなつちゃん……」
そうつぶやくとナジコの目からは堰を切ったように涙があふれ始めた。
 「あらあら。そう。向こうに心残りがあるようね。かわいそうに」
ミルヌーヌはそう言うと憐憫のまなざしをナジコに向けてきた。だが、実はナジコは単にたまなつのことを思い出して悲しくなったから涙を流しているわけではなかった。もう一つ思い出したのだ。ラボにいた頃、その存在が仮説として提唱されていた上位存在のことを。それはこの世の理を超えているというよりは、それを全宇宙規模で改変し得る存在だと言われていた。それをナジコは”想定することに意味がある”思考実験の産物の一種程度にしか考えていなかったのだが、唐突に理解した。たった今目の前にいるのが”それ”なのだ。しかもミルヌーヌは「本体」と「端末」の存在をほのめかした。無数に存在しているのだ。このように会話し、意志を持つ「宇宙」が。空が落ちてくることを人は杞憂と呼ぶが、自分がその「落ちてくる宙」と会話している以上、もはやそれは杞憂などではない。このままでは、自分と縁を持つものがその「宇宙」の意思に翻弄されうる未来は容易に想像できた。自分がここでどうなろうとも、それだけは耐えられない。これは、それ故に流れた涙だった。
 「いや……なんでもないわ……でも……一つ教えて。貴女はいずれここから出られるのよね?」
愚問であった。ナジコは「出られない」と答えることに一縷の望みをかけていたのだが、そう尋ねるとミルヌーヌは無情にもニコニコしながら
 「もちろん、出られるわよ。『私は』ね。いつでも出られるから、あなたとお話したらすぐ出ていくつもりだけど」
と答えた。それを聞いたナジコは、ある一つの決断を迫られていた。
 「それなら、ここを出た後、貴女に……」
そこまで言ってナジコは言葉を詰まらせた。今彼女は、たまなつを守るために「空が落ちてこないように」何らかの交渉を持ちかけなければならない。だが、どうあがいてもそれは不可能な話であった。もはや彼女は一時的に正気を保っているだけのヒトの形をした塵のようなものでしかなく、ミルヌーヌという巨大な天秤に捧げるものは何一つ持ち合わせていなかったからだ。だがミルヌーヌはそっとナジコの頭を撫でて、
 「わかるわよ。何かあるんでしょう、私にやってほしいことが。いいわよ。何でも言ってみて。せっかくここまで頑張ったんだから、それくらいはしてあげないとね。ここで私と出会うことになった『幸運な』あなたへ、私からのプレゼントよ」
と言った。ナジコはしばし沈黙した後、無表情で
 「じゃあ、とびきり、大きなお願いを、するわ。いいんでしょう。何でも」
と言った。
 「もちろん、いいわよ」
とミルヌーヌは微笑んだ。何か思惑があってのことだろうか。だがいずれにせよ、ここで言わなければもはや望みは何も残されない。そして、
 「じゃあ、お願いよ。たまなつちゃんが存在している、時空を……時空そのものをよ。守ってちょうだい。永久に。たまなつちゃんが、いつまでも平凡に、何者にも、脅かされないで、ただ……幸せに暮らせるように、して。あなたの『本体』だって手が出せないように……できるんでしょ。何でもって言ったんだから」
ナジコはそう言うと跪いて、ミルヌーヌの脚を両手でぎゅっと掴み、うなだれた。ミルヌーヌは楽しそうに笑った後、
 「ちょっとだけ驚いたわ。あなた面白いこと言うわね。でもそれは叛逆よ。私という、『全て』に対してのね。何でもとは言ったけど念の為聞いておくわ。あなたはその対価を持ち合わせているの?」
と尋ねてきた。するとナジコはにやりと不気味な笑みを浮かべて顔を上げ、
 「それはもちろん、私自身と、気まぐれに、そんな矮小な人間の願いを叶えると言った……貴女よ」
と答えた。するとミルヌーヌはひとしきりまた嬉しそうに笑った後、
 「あなた本当にラッキーね。私はただ一言『イヤよ』って言えば終わりなんだけど、そんなの面白くないものね。約束は守るわ。私が約束を守らなくなったら全てが混沌に包まれちゃうもの。物理的にね。今、宇宙がそうなっていないことが私からの指切りげんまんだと思ってちょうだい。あ、直接指切りしてあげてもいいんだけど、ほら、今は羽が邪魔で面倒だから、いいわよね」
ミルヌーヌは心底楽しそうにそう話したが、ナジコが返事をすることはなかった。この「契約」が成立した瞬間には、ナジコは彼女の脚にすがりついたまま死んでいた。「前金」の支払いが完了したのだ。
 「あらあら、もう少しお話できればよかったけど……まあ、いいわ。じゃ、始めましょうね。ここから全てを……」
ミルヌーヌはそう言うと、屈んでナジコの頭をまた羽で撫でた。次の瞬間には、そこには誰の姿もなくなっていた。終わりの色しか存在しないはずのその空間に彩られた青空は既に消え失せ、唯一残ったものは、終わりにこびりつく緑青となった一人の人間の影のみだった──

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