「ネモフィラ、ごめんね。私は本当に友達だったよ。私は本当に好きだったよ」
そうして、たまなつちゃんは大きな水のうねりに飲まれ、流されて行きます。
「いてっ!!」
流されている最中、たまなつちゃんは森の中の木に頭をぶつけました。そこでとっさに木にしがみつき、まだ息が続くうちに必死によじ登り水面から顔を出しました。この激流の中で泳いで水面に上がるのはなかなか容易ではありませんでしたが、こうして一度顔を出してしまえばまだどうにかなるかも知れません。
「けどどうしようか…このままじゃ人間の住んでいるところがみんな水に沈んじゃうよ」
たまなつちゃんは徐々に上がっていく水位から逃れるように少しずつ木によじ登りながら、辺りを見渡しました。きっとこの水は、他の水源を巻き込んでもっと大きなうねりを作り出しているのです。呆然としていると、曇天の中に切り取られた青空のような美しい水色の飛行物体が見えました。それはハーピィのミルヌーヌでした。ミルヌーヌは声も上げずただ上空を見つめていたたまなつちゃんを発見し、旋回しながら近くまで降りてきました。
「そこの枝、一緒に座ってもいい? 折れちゃうかしら」
ミルヌーヌはたまなつちゃんの目の前で羽ばたきながら、さも何事も起こっていないような涼しい顔をして言いました。ミルヌーヌは見かけは単に大柄なハーピィですが、妖精のネモフィラも舌を巻くほど神秘的で巨大な力の持ち主であることをたまなつちゃんは知っています。
「ミルヌーヌ! 助けてよ。ネモフィラが水で人間に復讐しようとしているんだ」
たまなつちゃんは言いました。
「見ればわかるわ。そろそろやりそうって思ってたけど、いいんじゃない? 復讐した方がスカッとするでしょ」
ミルヌーヌは言いました。
「よくないよ。私まで死にそうになったんだから。友達なのに…それに、こんなことをしたら森も動物たちもみんな死んじゃうでしょ」
たまなつちゃんは言いました。
「そうね。要するに、あの子はあなたや森の他の生き物より復讐を選んだってことなんじゃないの?」
ミルヌーヌはさも当然のことであるように言い放ちました。
「だったら余計なんとかしなくちゃ。このままじゃきっとネモフィラも救われないよ」
たまなつちゃんは言いました。
「そうかしら。せっかく生やし…いや、生えてた木のおかげであなたは助かったんだから、このままネモフィラの悲願を見届けるのも悪くないと思わない?」
ミルヌーヌは空中で羽ばたくのをやめて腕を組みながら言いました。彼女は羽ばたかなくても空中に静止することができました。
「ダメ。だって、このまま人間の住みかが水に沈んじゃったら私の友達が他にもたくさん死んじゃうんだもん。ミルヌーヌはネモフィラより強いんでしょ? 私じゃムリだから、お願い」
たまなつちゃんは迫ってくる水から逃れるためもう少し木の上の方に登りながら一生懸命頼みました。
「健気ね。でもそう言われるとちょっと意地悪したくなっちゃうなー」
ミルヌーヌはニコニコしながら言いました。
「勘弁してよ。そんなこと言ってる場合じゃないんだから」
たまなつちゃんは困った顔をして言いました。
「じゃあ、あなたは何を差し出してくれるのかしら。何事もタダでってわけにはいかないでしょ?」
ミルヌーヌは木のてっぺんによじ登ろうとしているたまなつちゃんのお尻を支えて押し上げてあげながら言いました。
「えー、じゃあ、うちの庭で取れるミニトマトをあげる。うちが水に沈んだらなくなっちゃうよ」
たまなつちゃんは木の梢近くの枝に腰かけ直して言いました。
「ミニトマト? そんなので私を動かそうっていうの? フフ、あなた本当に面白いわね。じゃあいいわ。面白いからそれで手を打ってあげる」
ミルヌーヌは呆れたような笑みを浮かべながら言いました。
「ホント? 言ってみるもんだね。じゃあ、ネモフィラを止めて。お願いね」
たまなつちゃんは明るい表情を浮かべて言いました。
「任せてちょうだい。でもあなたは行かなくていいの?」
ミルヌーヌは言いました。
「うん、いいの。今度パンチとビンタが通るときに仕返ししに行くね」
たまなつちゃんはそう言ってほほ笑みました。
「多分、あの子には一生通らないと思うけど…じゃあ行ってくるわ」
ミルヌーヌはそう言うと、くるりと空中で回りたまなつちゃんに背を向け、また空へと飛び立っていきました。たまなつちゃんは、その切り取られた青空のようなシルエットを見届けると、反対の方向を向きました。森は今や水没し、自分がいる木と同じくらいの高さの木が今にも沈みそうになっている様子、既に沈んでいる様子がまばらに見えています。
「私、友達がいてよかったな」
たまなつちゃんは濁流の水平線を見つめながらボソッと呟きました。人間の村まで水が到達するにはきっとまだしばらくかかるでしょう。その間にミルヌーヌはなんとかしてくれるはずです。けれど、本当はたまなつちゃんはネモフィラの復讐心を否定する理屈は持ち合わせていませんでした。ただ、たまなつちゃんは友達や家族の命が大事だったのです。人間たちがロクでもないことは、たまなつちゃんもよく知っているし、友達や家族がどんなに親切でも、この世界はもしかしたら、全部足したらマイナスになるかも知れないと思うくらい、悪いことや辛いことがいっぱいです。大体、たまなつちゃんは猫の耳と尻尾が生えていて人間ではないし、人間が好きなわけでもないのですが、地上に住んでいる以上は全部押し流されてしまったら困るのです。
「うっ」
しばらくじっと景色を見つめていると、たまなつちゃんは急に少しめまいがしました。ミルヌーヌが飛んで行った方向に目を向けると、空が歪んで見えました。時間が止まったんじゃないかと錯覚した次の瞬間、曇天は青空に変わり、森に満ちていた水は最初からなかったかのように消えてしまいました。やがて、たまなつちゃんの耳には、”初めから聞こえていたであろう”鳥のさえずりや虫の声、風が木を揺する音などが感じられました。終わったんだ、そう思ってたまなつちゃんは少しずつ木を降りていきました。
「今日は木登りして遊んでたの?」
ミルヌーヌが言いました。木の下にはなぜか、ミルヌーヌとネモフィラが仲良く並んで立っていました。
「あ、ネモフィラ!」
たまなつちゃんはミルヌーヌには目もくれずネモフィラの顔めがけてビンタを飛ばしました。ネモフィラの顔はビンタが命中すると水になって弾けましたが、すぐに元の形状に戻りました。
「え、たまなつちゃん急に何するの?」
ネモフィラは、ビンタは全然効いていませんでしたが驚いてそう尋ねてきました。
「そうよ、たまなつちゃん。”ネモフィラは何もしてないのに”ビンタするなんて」
ミルヌーヌがそう言ったので、たまなつちゃんはミルヌーヌが人知を超えた手段で問題を解決したのだということを理解しました。
「ごめんね!!!」
たまなつちゃんは仕方なしに、渋い顔をして言いました。
おわり