第1話「帰巣」

 「……けて……助けて……なつちゃん!!」
彼女は、助けを求めるその声を確かに聞いた。
 「わかった。待ってて」
彼女はそう呟いた。

  仄暗い、石造りの広大な部屋のど真ん中に、その少女は立っていた。周囲には彼女を円形に取り囲むように数人の白装束の男たちの姿があった。
 「見ろ、あれは……」
 「ああ、猫だ。猫の耳と、尻尾が……」
 「確かに……だがどう見ても子どもだぞ」
彼らはにわかにざわつき始める。そんな中、仰々しい飾りのついた杖を持った一人がおもむろに少女に歩み寄り、深々と礼をした後、話しかけた。
 「失礼ながらお尋ねします。その猫の耳と尻尾……貴女様が、猫神ブバスティス様であらせられますか?」
すると、少女は言った。
 「違うよ」
男たちはさらにざわつき始めた。
 「やはり違うのか?」
 「だが、あれは紛れもなく獣人だ」
 「どうする?」
すると、少女に話しかけた男が周りを見渡して声を上げた。
 「捕らえろ!!」
男は少女に掴みかかったが、彼女は長い黄緑色の髪を振り乱してそれをするりとかわすと、そのまま勢いをつけて男の胸骨あたりにラリアットを仕掛けた。少女の細腕からは想像もつかないような力で男は吹き飛ばされて転倒し、杖を落とした。少女はひょいとその杖を手に取ると、さっとあたりを見渡して見つけた部屋の出口に向かって一目散に走り始めた。
 「うっ……お前たち、追いかけろ!!」
男は背中をさすりながら叫んだ。逃げ出した少女を男たちが一斉に追いかける。だが、少女はすばしっこく、ややしばらく誰にも追いつかれなかった。部屋を出てすぐの階段を脱兎のごとく駆け上がり、そのまま廊下も駆け抜けていこうとしたが少し息切れして、ふぅ……と一息つくと、後ろに血眼になって追いかけてきた一人の男の姿が見えた。少女はすぐには走り出さずに男を間合いに引き付けると、持っていた杖を凄まじい角度で振り抜き、男の顔面に打ち付けた。バチン、という嫌な音と共に杖の飾りの一部が壊ればらばらと床に散らばる。男は”ぐぇ”と声を上げて仰向けに倒れ、切れた額と、衝撃を受けた鼻からは血が流れ始めたが、すっかり伸びて立ち上がれない。これ幸いと少女は廊下を駆け抜ける。2人目以降はまだ追いついては来ない。
 「うわ、なんだ!?」
 「おい、あれって……」
 「どうする、警報を押すか?」
廊下を駆け抜けた彼女が出た先は研究棟のような場所だった。状況がイマイチ理解できていない職員たちは、出口に向かって駆け抜けていく少女を積極的に止めようとはしなかった。しかし、
 「1階全域、コード・バイオレットだ!! 館内放送を掛けて出入り口を封鎖しろ!!」
後ろから声がする。そこでようやく、部屋から通路を遮るようにして、数人の白衣を着た研究員らしき男たちが飛び出してきた。
 「おい、止まりなさい!」
だが、少女は返事もせず、強引に横を通り抜けようと猛スピードでその隙間に割って入っていく。そのとき、彼女が着ているパーカーの襟を掴まれそうになったが、ギリギリでかわしつつまた杖を振り抜いて上体に激しく打ち付け、並んだ職員をドミノ倒しにしてひたすらに駆けていった。だが、ノンストップでとまではいかず、後ろから追いかけて来ていた男の一人が距離を詰めてきていた。同時に館内放送が鳴る。
 「1階全域、コード・バイオレット。繰り返す。1階全域、コード・バイオレット。玄関と非常口はロックせよ」
少女はそんな放送は完全に無視して、玄関の方向へ一目散に駆けていた。そうかと思えば、後ろをちらりと振り返ると尻尾を左右に振りながら急停止し、そのまま片足を軸にターンして遠心力を乗せ、払うように杖を振り抜いた。するとすぐそこまで追いついていた男は勢いよく足払いされ派手に転倒させられた。自分よりも前方に吹っ飛んでうつぶせに倒れている男を踏んづけて、少女は間髪入れずに駆けて行った。
 「おい、止まれ! もう玄関は開かないぞ!」
近くにいた職員はそう叫んだが、少女は彼には一瞥もくれずガラス戸の自動ドアに向かって走りながら、槍投げの要領で杖をぶん投げた。すると杖は自動ドアに命中し、轟音とともに自動ドアの強化ガラスが木っ端みじんになり、少女は枠だけになったドアをひょいと抜けて、そのまま建物の外に消えていった。
 「おい、どうなってる?」
 「どうもこうも……まるで悪夢だな」
粉々になったガラスが床一面に広がった玄関に集まってきた職員が口々に嘆きの声を上げた。そして、
 「ハァ、ハァ……おい、あいつはどこに?」
更に後ろからようやく追いついてきた数人の男のうちの一人が尋ねたが、尋ねられた職員は静かに首を横に振りうつむくばかりだった。

 「にゃーん。にゃおー」
1匹の黒い野良猫が、陽が沈んだ町をとぼとぼと歩く一人の少女に話しかける。
 「キミもなの? 人違いなんだけどなー。まあいいや、そこに案内してくれる?」
少女はそう言うと、前を歩く黒猫についていく。
 「ここなの? ありがとね」
やがて少女は閑静な住宅街の一角にある1件の家に案内された。インターホンを鳴らすと、一人の男性が玄関のドアを開けた。
 「あ、真夏ちゃ……いや、違う……? 君は一体……?」
男は一瞬安堵の表情を浮かべたが、すぐに少女が見知らぬ人物であることに気がついた。
 「ここでも人違い? だから1文字足りないんだって。私の名前は”たまなつ”だよ」
少女は男の顔を見上げながら、少し首をかしげてそう言うのだった。

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