2人の主任

 「はぁ、自業自得とはいえ、スマホしか触れない生活がここまで無味乾燥だとは」
名治子はそんな独り言を言っていた。彼女は未だINCTの隔離病棟に一人、入院していた。業務も心配ではあるが、それ以上に一連の騒動で負った傷が思いのほか深く、なかなか退院できずにいた。そんな彼女は今、部屋の外から足音を感じている。誰かが近づいているのだ。歩きながら鼻歌を唄っているその上機嫌な誰かが部屋に入ってくる前に、痛む傷口をかばいながら彼女は少しずつ身をよじってそちらを向こうとしていた。すると、
 「おぉ、ここにいたのか那次博士。この病棟は”空き”のはずなんだがなぁ」
と、病室の入り口から声がした。
 「あー、すみませんね。もう少し待ってください。今そっちを向きますから」
名治子はその声の主が誰かはすぐに分かったが、もぞもぞと時間をかけてようやく体の向きを変え、その姿を確認した。そこにいたのは、INCT臨床研究部の主任、明星夢見だった。白衣に身を包み、三つ編みを片側におろした茶髪の女性……彼女はこの研究棟の責任者でもあり、名治子と同じクラスの職員であった。
 「アッハッハッハ! なんて様だ。名治子、喜べ。この私が見舞いに来てやったぞ」
夢見は極めて上機嫌な様子で言った。名治子は苦笑いをして
 「おやおや、ありがとうございます。ここにわたくしが入院していることは秘密のはずなのですけどね」
と答えた。すると夢見は
 「今更何を言ってる。お前が赤森にすべて報告するよう言ったんだろうが。今回の件も、お前が例の体験会で本当は何を見たのかも、全てアイツから聞いている。正直なところ、そろそろ私が来ると思っていたところじゃないのか?」
とニヤニヤしながら言った。
 「ああ……まあ、そんなところではありますが……鼻歌交じりで随分と上機嫌なようですね? てっきりわたくしの胸ぐらでも掴みに来たものかと」
名治子がうつむきながら少し遠慮がちにそう言うと、
 「フフ……実はこの歌でなぁ……まあその話はいい。というか私を何だと思ってるんだ? お前と赤森は素晴らしい成果を残してくれたじゃあないか。今回の計画がお前にとってどうだったかはさておいて、だが」
夢見は相変わらず上機嫌な様子でそう話した。名治子はまだ違和感を感じていた。
 「採取した被験者のデータを見れば成果は明らかだが、それ以上に私自身大きく考え方を変えさせられる機会があったものでね。旅行に行くと世界が違って見えるなどとはよく言ったものだ」
そう言うと夢見はそっとベッドの傍らの丸椅子に腰かけて、持ってきた手提げのバッグを漁り始めた。
 「ここの病院食はさぞ不味いだろう。ほれ、珍しいマーマレードだ。まあイギリス産だからなぁ、口に合うかは保障しないが……他にも色々あるぞ。ほれ、これなんかは世界的に有名なクマのぬいぐるみだ」
夢見はそう言うと、お土産をいくつもサイドテーブルに並べ始めた。名治子は、いつも皮肉めいてつんけんしている彼女の奇妙なまでの機嫌の良さに困惑し、思わず
 「なんとまあ、わたくしを怯えさせに来たのですか?」
と言った。すると夢見はというと、相変わらず笑みを浮かべながら
 「ハハ……この程度で怯えてくれるな。私はこの世で最も恐ろしい類の話をお前にしに来たんだ。赤森にはもう話したがね。私はてっきりアイツがストレスで気が狂ったものとばかり思っていたが、そうじゃなかったことがよーくわかったのさ。なあ、お前ならその意味が分かるだろう?」
と話した。名治子はそれを聞いて、おおよそ夢見がどのような類の体験をしてきたのか察しがついたが、それを確信に変えるべく、彼女の話に耳を傾けた。夢見は知り合いのアレクという青年らとイギリス旅行に行く計画を立てていたところから話し始め、旅行の最中、自分たちが300年もの因縁の決着の場面に立ち会わされているということを知り、結局のところ予定より早く帰国して「神の門」の顕現を阻止したところまで余すことなく概要を話した。名治子はそれを聞いて一層戦慄した。彼女の体験は、赤森や自分の体験に引けを取らないどころか、別の観点から言えばより差し迫った深刻なスケールの事件であったからだ。
 「ああ、何と恐ろしい……わたくしや赤森さんの体験にはまだ共通する名前が見え隠れしていましたが……それとは全く別にそれほどの強大な何かが存在しているなど、考えたくもありませんね」
名治子は夢見が置いたマーマレードのビンを手に取ってラベルをしげしげと眺めながら言った。
 「ああ、私も二度とあのような体験はしたくないね。いや、或いはあえてすべきなのかも知れないが……」
夢見はフンッと鼻で笑いながらそう言い放った。
 「……やはり、貴女には受け入れがたいことだったでしょうか。その、”神”の実存、というものが……」
名治子はまた少し遠慮がちに言った。名治子は夢見の過去を知っている人物であった。夢見は新興宗教の信者の家庭の出身で、二世信者として育てられた。しかし、両親の歪んだ教育に堪えかね、自らの命を守るため14歳のときに両親を殺害するという凄絶な経験をしていたのだった。彼女は優秀な頭脳を持っていたためその後密かに身柄をINCTに引き取られ、それからは長らく、自らの人生を狂わせた元凶でもある”神”の存在を否定することにその生涯を捧げてきた。そんな彼女が、存在するはずのない”神”の実存を目の当たりにしてしまったことに如何なる意味と重みがあるものか、名治子はそれを計りかねていた。
 「正直なところ、あんなものに実在して欲しくはなかったとも。だが、逆に私はこう思う。それが実在し、我々と同じ次元に姿を現している以上、それは神秘などではない。私が存在を強く否定しているのは、いい加減な教義で都合よく人間に与するとされている形而上の”神”だ。だがそれを否定した先にあったのは、人間など歯牙にもかけない凶悪な”何か”だった……これはそれだけの話だ。人間が神の怒りに触れた、などという逸話は枚挙に暇がないが……実はそちらの方が、インチキ宗教よりもずっと実態に近い。我々が知ってしまった”神”は、人類の敵であり、純粋な邪悪であり、それを崇める人間は何であれ悪そのものだ。そうだろう? であれば、そんなものは結局のところ”神”でもなんでもない。薄っぺらな信仰も今を生きる人類も、遍くこの世の全てを否定する災厄だ。……であれば。逆説的に、”神”はその実態を暴くことで、”神”であることを否定できる可能性があると言える。そして私は図らずもこの手でそれを実証したんだ! これ以上に愉快なことはあるまい?」
夢見は興奮した様子で大きく身振り手振りをしながらそう話した。
 「なるほど……よくわかりました。”存在しない”ことを証明するよりも、”存在はするが実態は神などではない”と証明する方が現実的で、かつ周到であると、そう言いたいのですね?」
名治子はふーっとため息をつきながらそう尋ねた。
 「まさにその通り。さすがだよ、那次博士。つくづくこんな山奥の支部の狭い物置部屋をラボにしているのが勿体ない。順調なのかね? あのMorphee Gearといったか? 幻術マシーンの研究は」
夢見はそう言うと、名治子のために買ってきたお土産のチョコレートを開けて自分の口に放り込んだ。
 「ええ、まあ……いいんです。わたくしの研究に大規模な設備や広大な部屋は必要ありませんし、研究主任とはいってもセラピーの合間に書類に目を通す程度のものですから……研究自体は順調ですよ。わたくしとて、この不都合な現実が恐ろしくて仕方がないので」
名治子はうなだれながらそう言った。
 「ああ、なるほどな……ご愁傷様。いや、研究が順調ならいいことだろう。私もこうしてお前の”セラピー”を受けに来てやっているんだし、お前はよくやっているとも」
夢見がニヤニヤしながらそう言うので名治子は内心うんざりしたが、職業柄顔には出さなかった。
 「こんな活き活きとしたクライアントをお目にかける機会はあまりありませんがね。それより、貴女こそ、イギリスで”例の場所”は調査できたので?」
名治子は逆に尋ねた。
 「ああ、それなんだが、早く帰国する羽目になったこともあって全く足を運べなかった。コーンウォールは今回向かったヒースロー空港からは遠すぎるのでね……だが、現地に多少伝手ができて情報収集はし易くなった。近々、旅行ではなく本格的な調査として再び訪れようと思っているところだ。お前も気になるだろう? 例の教団は……お前にとってはあの子の出自を知る唯一の手掛かりだからな」
名治子はそれを聞いて少し怪訝な表情を浮かべ、
 「わたくしは、そのことは別にどうでもいいのですが……彼女の立場は貴女と似ているように思います。こういったことは、繰り返されるべきでは……いえ、それはわたくしが言うべきことではありませんね。失礼しました」
と、やや目を逸らしがちに話した。
 「なぁに、畏まることはない。私とてお前と同じ意見だとも。だが忘れてくれるな。あの子をお前が引き取らなければ、今頃私の研究はもう少し捗っていたかも知れないんだ。もっとも、今回体験した大事件に比べれば些事とも言えるが……フフ。そうそう、今は親戚の家に預けているらしいが、そちらにも土産を送っておいてやったぞ。キャットニップと言ってね、猫が喜ぶハーブティーがあったんだ。あの子が好きそうなものだろう?」
夢見がぐっと口角を吊り上げながらそう言うのを、名治子は睨みつけていた。
 「そんな怖い顔をするな。我々は超常現象被害者の会の貴重な会員同士じゃあないか。これからもどうか仲良くしてくれたまえ。じゃあ、私はそろそろ失礼するよ。だいぶ前にアレクから聞いた”チェンジリング”という現象について、イギリスで見た資料が調査の役に立ちそうだとわかってきたところでねぇ、忙しくて仕方がないのさ。じゃあな、那次博士。この私のラボでゆっくり羽を休めるといい。お大事にな」
そう言うと、夢見はおもむろに立ち上がり、背を向けて手を振りながら大量のお土産を残して病室を去って行った。名治子は頭を抱えながらその後姿を見届け、スマホを片手にまたのそのそと体をよじって壁の方を向いた。嫌な予感がする。かといって今自分に何が出来るのかは皆目見当もつかないが、彼女はただそっと目を瞑って考えを巡らせようとするのだった。

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