薄幸天使と魔法(じゃない)少女

 その日、たまなつは河原の芝生の上に寝っ転がって空を見つめていた。雲一つない青空は綺麗で、平穏で、少し退屈だ。空が落ちてくるかもしれないと憂うことを何と言うんだったか。そんなことを考えているうちに眠くなって、うとうとしていた。
 そのとき、空が落ちてきた。
 「あらぁー、ごめんねー」
そう言われ、たまなつはわけもわからずじたばた暴れている。
 「重い!!」
たまなつがそう叫ぶと落ちてきた空はようやく体をどけて、
 「結構失礼ね。まあ私の体が大きいのは認めるけど……ふふ、この翼を使わないと飛べないっていうのはどうにも慣れなくて……あなたに会いに来たのに、落っこちちゃったのよ」
と話した。彼女は大柄なハーピィの女性、ミルヌーヌだった。服も翼も、美しい空色をしている彼女は飛んでいる最中に河原で転寝しているたまなつの近くに着地しようとしてボディプレスを繰り出してしまったというわけだ。
 「でもほら、ケガしなくて済んだでしょ」
ミルヌーヌはそう言うと、ちょうどクッションになった大きな胸を自分の翼でてしてし叩いていたが、たまなつは渋い顔をしていた。
 「あなた誰? 何か用?」
たまなつがそう言うとミルヌーヌは面食らって、
 「ああ、そうだったわ。初めましてだったの忘れてたわね。私はミルヌーヌ。幸せの青い鳥よ」
とにこにこしながら自己紹介をした。変わった名前だったため、たまなつはその響きを記憶していた。そう、それは確か……
 「ネモフィラちゃんが言ってたママみたいなでっかい鳥の人ってあなたのこと?」
たまなつがそう尋ねると、ミルヌーヌは嬉しそうに
 「なんだ、ネモフィラが私のこと話してたのね。そうよ。あの子、ヒトの世界に顔を出してる割には世間知らずだったから……最近うちで面倒見てあげてるの。これでちょっとは信用してもらえるかしら?」
と話した。たまなつは、まあそれならいいか……とミルヌーヌを信用することにした。

 「幸せの青い鳥って、なに」
たまなつは今や自分と横に並んで芝生に寝っ転がっているでっかい青い鳥に語りかけた。
 「知らないの? 本はよく読んだ方がいいわよ」
ミルヌーヌはそう言うと、
 「まあ、そうね……とにかく青い鳥は幸せの象徴なのよ。それが頼まなくても自分のもとにやってくるなんて、ラッキーだと思わない?」
と続けた。空から落っこちてきた大柄な女性にのしかかられることがラッキーだと思うのは品のないクラスメートの男子たちくらいじゃないだろうか、とたまなつは思っていたが、まあそれはそれとして、ミルヌーヌが本当に幸せの象徴なのであればラッキーなのかも……とも思った。
 「じゃあ私、これから幸せになれるの?」
とたまなつは尋ねた。ミルヌーヌは、
 「ええ、もちろん。ただ……私はあなたにとって何が幸せなのかは知らないのよね。あなたは幸せっていうのはどんなものだと思う?」
と尋ねてきた。たまなつは大して考えもせず、
 「家族みんなで仲良く暮らすことかな」
と答えた。ミルヌーヌはまたにこにこしながら、
 「あらステキね。あなたいい子じゃない。でも……確か、あなたよくカリンちゃんに怒られてるんだったわよね? 怒られても、幸せだと思う?」
と尋ねてきた。たまなつは、それはもちろんそうだ、と答えたいところだったが、できれば怒られない方が幸せなのかな……とも思い、少し悩んだ。
 「それに、あなたはその辺の人間より強いから気にならないだろうけど、世の中には悪い人もいるし、そんな人たちのせいで自分や周りの人が嫌な目に遭うことだってあるでしょ? それでも幸せ?」
と、ミルヌーヌはさらにそう尋ねてきた。たまなつは少し考えて、
 「そう言われると、幸せって自分だけのものじゃないのかも……みんな、全部がよくならないと本当の幸せじゃないのかな……」
と呟いた。ミルヌーヌはスッと立ち上がり、
 「ふふ、どうかしらね。まあ、ここで答えが出るとは思ってないわ。言いたいことはその時々で変わるかも知れないし、たくさん考えたからっていい答えが出るとも限らないし……でもね、そういう疑問を心の中に持ってることが大事なのよ。だからまあ、今日のところはそんな機会を私に与えてもらえてラッキーだと思ってちょうだい。じゃあね」
と言って、大きな翼を振って別れの挨拶をし、徒歩で去って行った。そのときたまなつは、歩いて帰るならわざわざ飛んで来て人の上に落ちてこないでほしいな、とだけ思っていた。

 それから数日が経ち、たまなつは「幸せとは何か」などという大きな命題のことはほとんど忘れていた。ただ最近、何か妙だな、という感覚があった。
 「なんか最近風邪でも流行ってるのかしらね」
カリンが言った。ここはたまなつたちが通う学校の教室。朝の会では今日も何人かクラスメートが欠席になったと連絡があった。
 「そうかなぁ」
と、教室の端で立ってカリンと会話していたたまなつが答えようとしたとき、クラスの女子が一人カリンにぶつかってきた。カリンはすかさず、
 「ちょっと、痛いわね!!」
と、ぶつかってきた女子の胸ぐらをつかんだ。たまなつはその場面を表情一つ変えずに眺めていたが、それもそのはず。ぶつかってきた女子は普段からあまりカリンにいい顔をしておらず、実は裏で嫌がらせをしているのではという噂さえあるほどだった。カリンもそんな彼女をなんとなくよく思っていなかった。彼女は人間で、どう足掻いても力でカリンに勝てないから直接絡んではこなかったのだ。それが急にぶつかってきたんだから、宣戦布告と取られても仕方ない、とたまなつは思っていた。しかし、その女子は
 「ああっ、ごめんなさい! 大丈夫?」
と言った。カリンはそれを聞いて、
 「え、いや……まあ、うん……」
と、なんとなくばつが悪そうに手を離し、少し頭をかきながら言った。たまなつはその光景に面食らった。あの女子の口ぶりはわざとぶつかってきたときのそれではない。しかも、カリンに対する敵意が何一つ感じられない謝罪だった。なんだったらカリン自身が、そんな彼女に先に手を出したことを恥じているように見えた。
 「本当にごめんね。あ、そうだ。カリンちゃんにもこれ渡しておくね。よかったら読んでおいて!」
彼女はそう言って1枚のプリントをカリンに渡すと、自分の席へと去って行った。たまなつがそのプリントを覗き込むと、そこにはボランティア募集のお知らせが書かれていた。
 「当サークル『フォルトゥナの輪』ではボランティアに参加していただける方をいつも募集しています。皆さんも慈善活動を通じてヒトの幸福の時間を過ごしましょう! 今回は町を歩いてゴミ拾いをしたいと思います。参加申し込みはこちらのQRコードから! 日時は……」

 放課後、たまなつはカリンと一緒に帰り道を歩いていた。
 「カリンちゃん、朝のボランティアの紙まだ持ってる?」
とたまなつが尋ねると、
 「持ってるけど、何よ。アンタ行きたいの? えーと……ほら」
と言われ、カバンから出したプリントを渡された。たまなつはボランティアには特に興味がなかったのだが、なんとなく違和感を感じていた。
 「この紙くれたあの子、カリンちゃんのことよく乱暴だって言ってたからいつか締め上げてやろうと思ってたんだけど……今日は全然いい人みたいだったから、なんかヘンだなって」
とたまなつが言うと、カリンは嫌そうな顔をして
 「ちょっと、余計なことで暴力沙汰起こそうとしてるんじゃないわよ……いやまあ、今回は私が言えた義理でもないけど。ただアンタの言いたいことは分かるわよ。アイツ、絶対にボランティアなんて行くような性格してなかったとは思うわ」
と言った。そう言われると妙に気になってきたたまなつは、いっそのことボランティアに参加してみることにした。

 日曜日のことだった。町の小さな公園に、朝の8時から集合する。夏休みのラジオ体操……にしては少し遅いが、天気も良くさわやかな朝でたまなつは思いのほかわくわくしていた。
 「さあ、いい時間ではないでしょうか。おはようございます。『フォルトゥナの輪』代表のサナティアです。皆さん今日はお集まりいただきありがとうございます。これからみんなで手分けして、町のゴミ拾いをしていきますから、頑張っていきましょうね!」
そう挨拶し号令をかけたのは、短い金髪にTシャツと長ズボン、長靴を履いてゴム手袋をして火ばさみとゴミ袋を携えた、このボランティアサークルのリーダーのサナティアだった。どんな人かと思っていたが、存外素朴な風貌にたまなつは拍子抜けした。今日はそれほど大人数は集まっておらず、10人くらいの人員が2グループに分かれて活動することになった。たまなつはサナティアについていくことにしたが、そちらのグループにはカリンにプリントを渡してきたクラスメートも参加していた。
 「たまなつちゃん、来てたのね。カリンちゃんにだけ話しかけちゃってごめんね」
彼女が話しかけてきた。
 「いいのいいの、それにどうせカリンちゃん休日は朝ぐっすり寝てて来られないから……」
そんな話をしていると、人気のない日曜の朝の商店街を歩きながら先頭で一番積極的にゴミを拾っていたサナティアが急に振り返り、
 「お友達ですか? よいですね、こうして新しい参加者の方が来て下さるのはいつも本当にうれしいです」
と言った。するとクラスメートはにっこりと笑い、
 「先輩、一人でも新しい子が来るといつも大はしゃぎですよね」
と話した。するとサナティアは少し照れくさそうに、
 「一人でも多くの方に活動が広まることが私の一番の望みですから、当然喜んでしまうのです。あなたが初めて参加してくれた日のこともよく覚えていますよ」
と言い、さらに、
 「ところであなたがたまなつさんですね。ほんの少しですが噂は聞いていました。先ほども言った通り我々の活動に参加してくださったのはとても嬉しく思いますし、特に在校生からの新しい参加者は多ければ多いほど活動が広まりますからお友達にもぜひ我々のことを教えていただけるとありがたい限りです。あ、楽しんで参加していただくことが一番ですから今日はリラックスしてのんびり参加してくださいね」
と少し早口で話しかけてきた。その目は自分を見ているはずなのだが、黄金色の美しい瞳は何故かもっと遠くの方を見ているように感じられ、不思議な感覚に陥る。
 「は、はい……」
たまなつは少し恐縮していた。

 その日のボランティア活動は一時間半ほどで終わった。たまなつが気にしていた例のクラスメートも、不自然な点は一もつなく、ただ善良な市民として活動に参加していた。人に嫌がらせをするような陰険さは微塵も見えず、まるで最初からこのような活動が生きがいであったかのように穏やかで、さわやかで、とにかく、そう、幸せそうに見えた。
 「今日はお集まりいただき本当にありがとうございました。ほら見てください、こんなに……うーん、思ったほどゴミは集まりませんでしたね。でもそれは最初から町が綺麗だということですから特に喜ぶべきことだと思います! 次回の活動にもぜひ参加していただけると幸いです。私はこの『フォルトゥナの輪』をもっともっと広げることで、私が、いえ、我々がヒトの幸福に近づくことができると信じていますから。それでは皆さん、どうか気をつけてお帰りくださいね」
サナティアがそう挨拶すると、集まった人々は各々帰って行った。いざ参加してみるとあっけないものだったなぁ、と思いながらたまなつも帰ろうとしたとき、
 「たまなつさん」
と、サナティアに呼び止められた。
 「あ、はい……」
たまなつはさっさと帰る気でいたので呼び止められて少し驚いた。
 「今日の参加者は多くはありませんでしたが、その中であなたはたった一人、初めて活動に参加してくださった方です。初めて参加していただいた方にはプレゼントをお渡ししているんです。はい、これをどうぞ」
と何かを手渡してきた。それはアクリルの中にカードのようなものが入った小さなキーホルダーだった。カードには、舵輪のような輪の絵が描かれている。
 「あんまりささやかですから、わざわざ呼び止めてお渡しするのも恥ずかしいんですが、これは私が手作りしている幸運のアクセサリーなんですよ。キーホルダーなので、何かにつけてもらってももちろんいいですが、これを受け取った方たちの間では……枕元に置いて寝るといい夢が見られるなんて噂もあるんです。そんな風にこれをよいものとして捉えていただけると、わざわざ作った甲斐がありますし私もヒトの幸福に寄与できているようでとっても嬉しいです。大したものではないのですが、よければ大事にしてくださいね」
サナティアは相変わらずじっとたまなつの目を見ながら少し早口でそう言うと、それ以上は特に話すこともなく去って行った。たまなつはひとしきりキーホルダーを見つめた後、パーカーのポケットに突っ込んでそのまま家に帰ったのだった。

 「ねえ、ラスクちゃん、これ見てよ」
あれからさらに数日、たまなつは学校から家に帰ってひとしきりゴロゴロした後、この前参加したボランティアのお知らせがカバンの底の方でしわくちゃになっているであろうことを思い出し、引っ張り出して夕食前に帰宅したラスクに見せた。ラスクは制服のまま、ソファに座っているたまなつの横に腰かけてプリントを手に取った。彼女は以前はとあるマンションに住んでいたのだが、引っ越すことにしたため新居が見つかるまでたまなつたちの家に居候していた。ラスクは特に部活動をしているわけではないが、今日は放課後なかなか家に帰ってこなかった。彼女はたまなつが渡したプリントを見るとニヤっと口角を上げ、
 「おお、たまなつちゃんさすがだね。今日はさ、このボランティアについていろいろ情報を集めていたんだよ。いやぁー、これはなかなか面白い案件だよ。君に教えてあげたくてうずうずしてたんだ。いや、教えない方がいいのかな、絶対首突っ込むもんね、君ってやつは……」
と半分もったいぶったような、半分本気で心配するような口ぶりで言った。たまなつは首を突っ込むも何も既に参加していたので
 「私この前このボランティア行ってきたんだけど……」
と言った。すると、
 「なんだって? 君ってものぐさに見えて変なところアグレッシブだよね……まあいいや。ならもちろんここに書いてあるサナティアって人にも会ったでしょ」
ラスクが指さした名前を見てたまなつは
 「会ったよ。なんか、不思議な人だったかも……」
と答えた。どちらかといえばボキャブラリに乏しいたまなつから見ても、サナティアの口調や言い回しはどこか独特だと感じていた。
 「実は、このサナティアって子は結構最近うちの学校に転入して来たばかりらしいんだ。学年も私達の一つ上だし、今まで姿も見たことがなかったとしても不思議じゃない。こんな小さな島の学校に急に人が転入して来ただけでもなかなかのニュースなんだけど、本題はここからだ。君も知っての通り、この子はボランティアサークル『フォルトゥナの輪』のリーダーをやってて、在校生を中心に勧誘活動をして定期的にこうやってゴミ拾いとか掃除とか、世のため人のためになることをやっている」
ラスクがそう言うとたまなつは、
 「うん。なんか、すごく真面目に頑張ってる感じだったよ。いいことだと思うけど……」
と言った。ラスクは、その言葉を待っていたとばかりに満面の笑みを浮かべ、
 「そうだよね! 誰が見たってこんな活動いいに決まってる。でも面白いのはその後なんだ。このプリントには書いてないけど……ボランティア活動のあと、初めて参加した人にはあるものを渡しているらしい。君もきっともらっただろ。幸運のアクセサリをさ」
たまなつはそれを聞いて、この前もらったキーホルダーが部屋に脱ぎ散らかしたパーカーのポケットに入りっぱなしだということに気づいた。
 「おや? その顔はまさか、失くしたりしてないよね? それをさ、枕元に置くと……望み通りの夢を見られるんだって。どう? すごいと思わない?」
ラスクは嬉々として話したが、たまなつはその話をサナティア本人からも聞いていたし、そもそもあまり信じていなかった。
 「それ、サナティアさん本人が言ってたよ……キーホルダーを受け取った人たちの中でそういう噂があるって」
たまなつがそう言うと、ラスクは驚いて
 「なんだって!? 本人が言ってたの……それじゃあ私が集めてきた情報、全部もう君が知ってることだったじゃないか……はぁ、負けたよ。君のアグレッシブさにはさ」
と話した。たまなつは少し気の毒に思いながら、
 「そうやって楽しい夢を見たい人たちを集めてボランティアサークルを大きくしていってるってことなのかな?」
と尋ねた。するとラスクは顎に手を当てて少し神妙な面持ちになり、
 「うーん、まあ……そうだね。そのはずなんだ。そうでもなきゃ、私が調べた限りでは学生が始めたボランティアにしては規模が大きくなりすぎてるからね……」
と話した。たまなつはというと、もう
 「そうなんだ……」
と、だけ答え、この話にはあまり興味がなさそうな感じになっていた。ラスクは予想通りというか、でも呆れたというか、そんな顔をして
 「あーあ、君はどっちかというと魔法少女ミラクル☆ミルクちゃんが明日どんな怪人とバトルするか、とか、そっちの情報の方が欲しいんだろうなぁ」
と言った。たまなつはそれを聞いて、
 「え、もしかしてラスクちゃん知ってるの!?」
と食い気味に尋ねたが、ラスクは首を横に振って、
 「いやぁ、残念だけど私はそっちの情報は集めてないんだ。魔法少女の組織自体がちょっと闇が深そうすぎておっかないもんね。正直ミルクちゃんのことはいつも心配してるよ……まあ、気になるなら本人に聞いてみたらいいよ。安全確保のためってことなら教えてくれるんじゃない?」
と言った。たまなつが拍子抜けして、
 「なーんだ、つまんないの」
と言うと、ラスクはというと
 「それで、情報を教えてあげた私に何か言うことはないのかい?」
と尋ねた。それでようやくたまなつが
 「うーん……新しい情報はなかった気がするけど」
と答えると、ラスクはおもむろに後ろからたまなつの猫耳と髪をもみくちゃにしてきた。

 その日の夜、たまなつは例のキーホルダーを枕元に置いて寝てみることにした。それが入っていた、その辺に投げっぱなしだったパーカーもちゃんと洗濯物カゴに入れた。ママに怒られないよう、そっと底の方に隠しながらだが。正直たまなつはあまり夢の話を信じていなかった。大体、枕元に置けば夢が見られるのであれば、今まで同じ部屋の中にほったらかしにしてあったんだから少しくらい同様の効果があってもよかったんじゃないか、などと考えていた。それで、いざ目を瞑ると特にそわそわして眠れないなどということもなく、たまなつはいつも通りあっさりと眠りに落ちた。
 翌朝たまなつは普通に目が覚めた。何の夢を見たかなど全然覚えていなかった。少々ガッカリしながらも、まあ期待はしていなかったからな……と思いながら、それでも何か夢に見た内容はないか頑張って思い出そうとしつつ、いつも通り部屋のカーテンを開けると眩しい朝日が目に入ってきた。清々しい青空の、きっと誰が見てもいい朝だ。少し伸びをして、これまたいつも通り洗面所に顔を洗いに行く。
 「おはよう」
先に洗面所にいたカリンにたまなつは挨拶をした。
 「ん、おはよ」
カリンは普通に挨拶を返してきた。
 それから、朝食を食べる。当番制で、今日はあまなつが準備していた。ベーコンエッグにトーストの組み合わせがたまなつにとって「当たり」のメニューだ。
 「アンタ本当にベーコンエッグ好きよね」
そんな当たりのメニューに喜んでいるたまなつにカリンが話しかけてきた。
 「うん。朝ご飯はこれかツナ缶のときが最高だね」
とたまなつは口いっぱいに目玉焼きを頬張りながら言った。
 「たまなつちゃん、飲み込んでからしゃべるのよ」
ママらしくあまなつが話しかける。たまなつはにこにこしながら頷いた。
 「そういえば、今日は休みだしアンタが行きたがってた海にでも行かない?」
カリンがトーストをちぎりながら提案した。たまなつは少し驚き、
 「え、カリンちゃん海行くと日焼けするし髪が傷むからイヤって言ってたのに……それにカリンちゃん、休みの日に寝坊しないなんて、珍しいね」
と、いつも通り余計な一言を添えて答えた。
 「何よ、人をねぼすけみたいに言って……それに姉さんも乗り気だったから気が変わっただけよ」
カリンは穏やかな表情でそう話した。
 「そう?」
たまなつはそう答えたが、あっけに取られていた。いつもなら余計なことを言うとすぐ怒るカリンがこんな穏やかな表情をしているなんて。おかしいよね、とあまなつの方に目配せをしたがあまなつもまた穏やかな笑みを浮かべており、何も違和感を感じていないようだった。
 「海、いいよね。みんなで楽しみましょう」
急にそう話したのは、たまなつと同じくもみあげが横にはねた長い白い髪と、猫の耳と尻尾を持つ小柄な少女、しらたまだった。色々あって少女でありながらたまなつの「父親」に相当する彼女はいつの間にかテーブルの向かいに座っていた。
 「パパ……?」
たまなつは呟いた。たまなつの「父親」のしらたまは、会おうと思えば連絡して会うことはできるものの、普段同じ家では暮らしておらず、どこに住んでいるのかもわからないはずだった。
 「これがあなたの幸福の形なのですよ」
どこからともなく声がする。それと同時に、周囲の光景が一時停止したように凍り付く。
 「なんと純朴な幸福の形となったのでしょうか。私が手を加えることなんてほとんどありませんでした」
その声は、サナティアの声だった。
 「おっと、穏やかな家族との時間を邪魔してしまいましたね。どうか引き続き、お楽しみくだ──」
サナティアがそこまで言ったとき、たまなつの真後ろから
 「これで本当にいいの?」
という声がした。振り返ると、そこには自分がもう一人立っていた。少なくとも、たまなつはそれが自分自身だと認識していた。だがその容姿は少したまなつとは違っていて、髪は外側にはねておらず、猫の耳もしっぽもない。代わりに猫耳つきのヘッドホンを首にかけている。本来であれば見たことのない少女だった。だがその声は、録音した自分の声を聞いているようにしか感じられず、容姿の違いはその少女を「自分とは別の人物」と認識させるには至らなかった。
 「ありのままの家族の姿が好きなんでしょう?」
その言葉に思わずたまなつは
 「えっ……」
とだけ返した。
 「やはり”もう一人”いたんですねー。誰しも内面に別の自分を持っているものですがまさか」
と、どこからかサナティアの声がしたが、たまなつに似た少女はそれを遮るように
 「ほうっておいて。ここは私とたまなつだけの場所なの」
と言った。たまなつはただ唖然としていた。
 「それは失礼しました。私もここで長々と喋る気はありませんが、望むならあなたにも楽しい夢を見せてさしあげますよ。いかがですか?」
サナティアの声は相変わらずどこから響いてくるのかわからなかった。しかし、どこに目をやるでもなく少女は一言、
 「いらない」
と言った。そして、
 「たまなつが生きてる限り、私はもうずっと夢を見続けてるの。悪いけど出ていって。あなたが見せてくれる夢は私達には必要ないの」
と続けた。すると、急に辺りが真っ暗になり、そこにはたまなつと少女だけが取り残された。
 「大変失礼しました。私はたまなつさんの意見をまだ聞いていませんが、あなたがそう言うのならここでお話するのはもうやめにしましょう。それでは、お二人ともよい夢を」
サナティアは最後にそう言って、姿は相変わらず見えないがどうやらこの夢の中からはいなくなったらしい。暗闇の中、たまなつは座っていた椅子すらなくなってただ何もない地べたに座り込んでいた。
 「こんな形で私達が対面するなんて思わなかったな。でも大丈夫、起きたら忘れちゃうから」
そう言われてたまなつは座り込んだまま、
 「君は誰? 私じゃないの?」
と尋ねた。少女はどう答えるか少し悩んだが、
 「その質問に答えるには、朝が近すぎるかな。まあ、どうせ忘れちゃうから、気にしないで。自分だけの幸せをどうか見つけてね。それじゃ」
と答えた。たまなつは立ち上がって手を伸ばそうとしたが、その手は自室の宙を掴んだ。

 朝だ。何か、妙な夢を見たような気がする……と、まだ寝ぼけながらたまなつは思っていた。カーテンを開けると、空は曇っていていつ雨が降って来てもおかしくない様子だった。あちゃー、と思いながら洗面所で顔を洗っていると、眠すぎて目がほとんど開いていないカリンが後からやってきた。
 「カリンちゃんおはよう」
と声をかけたが、
 「あぁん?」
とだけ返事が返ってくる。寝起きのカリンの機嫌は最悪だが、今日は祝日でいつもより起きてくるのが遅かったため輪をかけてひどい。そんな日はたまなつもわざわざ挨拶しないのだが、ぼんやりしていてすっかり忘れていた。
 朝食を食べに食卓に着くと、なんだかキッチンの方が騒がしく、やたら炊いている途中の米の匂いが部屋に漂ってきていた。
 「あ、たまなつちゃんおはよ! ごめーん、今日当番なの忘れててさー。でも最近の炊飯器は早炊きできて便利だよね」
大して悪びれる様子もなくそんなことを言っているのは、居候のラスクだ。
 「便利だよねじゃないのよ、早炊きするとご飯が熱いしベチャってなっちゃうんだから! 怒るわよ! カリンが……ねえ、朝ごはんにこだわってるんだから」
と声を荒げているのは、家事全般の総指揮を執っているあまなつであった。
 「え? あぁ……いや別にいいわよなんだって。大体朝ごはんにこだわってんの姉さんだけだから……」
カリンはたった今リビングに入って来て早々に話を振られて、そんな釣れない返事をしつつ大きなあくびを一つしてどっかりと食卓に着いてぐんにゃりとしている。
 「えー!? 何よもうーカリンってば肝心な時に甘いんだから……たまなつちゃん! 今日は黙って座ってないで手伝って!」
あまなつがそうやって急に声をかけてきたのでたまなつは
 「はーい」
と答えて立ち上がり、食器の用意などを手伝い始めた。とても幸先のいい一日とは言えない、どちらかと言えば災難な朝だった。だが、それは決して悪いことではなかった。なにしろたまなつは、こんな日にも静かに笑っていたのだ。

 それからたまなつは結局この前の夢の内容を思い出そうとすることもなく、一度は枕元に置いたキーホルダーも机の引き出しに収納してしまったし、ましてや「本当の幸せ」のことなんてもう頭の片隅にすらない有様だった。ただいつも通りの日常を送っている。ただひとつ違うことと言えば、時折放課後に「フォルトゥナの輪」の活動へと向かう生徒を見かけたり、校内の掲示板に素朴な参加者募集ポスターがあるのが目に付くようになったことくらいだ。例のクラスメートは相変わらず朗らかで、最近はカリンに進んで話しかけたりもしているようだった。それで不思議と、たまなつはサナティアのことが気になっていた。最初は少し警戒していたし、その語り口調も独特に思えたが、ひたむきで純朴な優しい彼女のことを思い出すと、なんとなくまた会いたい気持ちになってくる。もう少し、彼女から話を聞いてみたい。まあ、本気でそう思っているならボランティアにもう一度参加すればいいだけのことなのだが、2回も参加すると今後も出なきゃいけなくなりそうでちょっと気が引けるので、あわよくば偶然学校のどこかで鉢合わせればいいと思っていた。そして、その望みは存外あっさりと叶えられることになった。
 「それは素晴らしいです。本当によく頑張りましたね」
 「先輩に褒められるなんて嬉しいです!」
 「私も後輩が人助けをしていることが誇らしいと思っています。今日の活動も頑張りましょうね」
たまなつが放課後、家に帰ろうと廊下を歩いていると、廊下からそんな会話が聞こえてきた。そしてその後、
 「こんにちはー」
と、たまなつに気づいたサナティアが手を振ってきた。
 「あ、サナティア先輩こんにちは。ちょうど探してたんですよ」
たまなつは思いがけない遭遇を幸運に思い、いかにも積極的に探していたような口ぶりでそう言ってしまった。するとサナティアは静かに微笑み、
 「そうだったんですか? それにしては随分のんびりと歩いているように見えましたが、私もあなたが私を探しているのではないかと思っていたところなんですよ。ちょうどよかったでしょう?」
と言った。たまなつは気の利いた面白い冗談だと思い、アハハ、と声を出して笑った。
 「素敵な笑顔です。まるで純真なようではありませんか。ところで、廊下で長々とお話するのもなんですから、これから静かにお話しできるところに行きませんか? よければ私のお気に入りの場所があるのですが」
サナティアがそう言うので、たまなつは頷いてサナティアについていくことにした。

 これといって道中おかしなことはなく、二人は学校の近くの坂の上にある小さな公園に辿り着いた。
 「このベンチに座ると、この町が一望できるんですよ。私はここから見える光景が好きで時折こうして一人でこの公園に来るんです。ここから見える光景は、まるで平穏な日常が砂時計の砂のように少しずつ穏やかに蓄積されていくようで、私はそれがいっぱいになって誰もがヒトの幸福となるその時を夢見ているのです。すると胸がすく思いになります。私の幸せが理解できますか?」
サナティアはベンチに腰掛けるなりそう話した。たまなつはじっと話を聞いてはいたが、突拍子もない質問に少し困惑した。
 「平和な町が好きってこと?」
たまなつがそう尋ねると、サナティアは満面の笑みを浮かべ、
 「その解釈はほぼ正解そのものといってもいいでしょう。ですがそのためには……変えていかなければならないものがたくさんあるのです。あなたも知っていると思いますがこの町は、いえ、この世界は決して治安がいいとは言えません。治安の良し悪しとはすなわち、ヒトの悪意や暴力の有無によって決まるものです。この町にもまだまだ暴力があり、悪意があります。ですが見てください。フォルトゥナの輪の活動に参加してくれている皆さんはもうすっかりそれらから隔絶され、お互いを思いやる心に満ちています。私は別に『満ちている』必要まではないと思っているのですが存外皆さんが善良な振る舞いをしていることを特に嬉しく思っているんですよ。ですから」
とまで言うとじっとたまなつの目を見つめてきた。たまなつは明確に、今日はサナティアの目は「自分自身」を見つめているように感じられた。この前のように、何かもっと遠くを見透かされているような感じはしなかった。そして、
 「あなたに手を加えられなかったことを不可解に思っているのです」
と続けた。
 「え……何が? 私に……?」
たまなつは困惑して尋ねた。何の話か全くわからなかった。
 「どうやらやはり覚えていないようですね。ですが今はそこに固執するべきではないと私は考えていますから、気になさらないでください。それよりも私は対話を行うことがより本来のヒトの形に近いものだと思って、こうしてあなたとお話しているのです。例えば、あなたは自らの持つ暴力性についてどうお考えですか? 暴力性というのは文字通りの意味で、あなたがしばしばいわゆる喧嘩をしていることを私も知っているのです。それはなぜですか?」
サナティアは尋ねてきた。たまなつはまだ少し困惑していたが、
 「それは、向こうが悪いからだよ」
と答えた。
 「そうかもしれません。今のところは。ですがあなたはカリンさんからも暴力を受けることがあるようですが、それはあなたが悪いからなのですか?」
サナティアは続けてそう尋ねてきた。
 「うん……そうだと思う。カリンちゃんが怒るのは、私が悪いからなんだと思うよ」
たまなつはそう言うと少し目を伏せた。
 「本当ですか? 本当にそれだけなのですか? 彼女は自分の機嫌の悪さを思うままに振り撒いてあなたに不要な害を与えているのではないのですか? それではまるであなたはいつも物陰で嵐が去るのを待っている哀れな子猫のようではないですか。私はこれを不幸と捉えているのです」
サナティアがそう話すのをじっと聞いているとたまなつはすごく腹が立ってきた。いつもそうだ。自分はカリンを慕っていて、ちょっとくらいカリンが乱暴だって何も悪く思っていないのに、何も知らない第三者は自分を被害者、カリンを加害者のように語り、カリンのことばかり悪く言う。
 「なんでそんなこと言うの! カリンちゃんは悪くないのに!!」
たまなつは声を荒げて思わず立ち上がった。
 「そうやってあなたは怒りに任せ、他のクラスメートに暴力を振るってきたはずですよね。あなたが悪いわけではないはずなのに、あなたは人を傷つけ、自らも傷つき、あなたが名誉を守ろうとしたカリンさんからさえその咎の報いを与えられる。果たしてこれで誰が幸せになるのでしょうか」
サナティアはつとめて冷静にそう言い放った。たまなつは何も言い返せなくなり、再びベンチに座ってぐんにゃりとうなだれてしまった。
 「……なんでそんな意地悪なこと言うの。私だって、どうしたらいいかわかんないのに……」
たまなつがそう言うと、サナティアは町の方を見つめながら、
 「だから私は、全ての暴力、全ての悪意を許すことがないのです。誰もがお互いを思いやることができれば、あなたもそうやって傷つくことはありません。お姉さんを守るために莫大な力を蓄えているカリンさんも、脅威がなければ、そして彼女自身が誰をも思いやることができるようになれば、その力を誰にも振るう必要がなくなります。誰もが互いに助け合い、ヒトの幸福そのものとなる。それでいいではないですか。私の言っていることは何か間違っているのでしょうか」
と話した。たまなつは少し考え、そうしてミルヌーヌと話したことをようやく少し思い出した。自分の本当の幸せとは、もしかしたら自分だけのものではないのではないか。その疑問の答えをサナティアが持っていた。しかし、
 「でも……そんなことできるの? それができてないから、治安が悪いところがあるんでしょ?」
たまなつは尋ねた。サナティアの言うことは、たまなつにはあまりにも壮大な絵空事に思えたのだ。
 「それができるのです。それがヒトの望みであって、私に与えられた全てだからです。そういう意味では……私とあなたは少し似ているのでしょう。与えられた望みに従った振る舞いが私達にとっての『生』であり精神性の担保だからです。とにかく私は、これからも活動を続けるということです。その結果は必ずあなたにも届きます。だからあなたはその日を楽しみにしていてください。その時になれば”お二人とも”きっともう一度あるべき幸福の形のその価値を理解することができるはずです」
サナティアはそう言うとスッと立ち上がり、
 「では失礼します。今日の活動は夕方からですから、私を待っている皆さんのために行かなくてはいけないのです。今日はお話に付き合っていただきありがとうございました。よければお礼に今度ジュースをおごってあげますよ」
サナティアはそういってたまなつに微笑みかけると、ゆっくりと手を振って歩いて去って行った。たまなつはというと、
 「あ、あの……」
と小声で呟くことしかできず、それはサナティアには届かなかった。そうしてしばらく、誰もいなくなった公園でぼんやりと、平穏であるかのように振る舞う町の姿をじっと見つめていた。そのときたまなつは、サナティアの考えていることはちょっと難しいが、きっと素敵なことなんだろうと思っていた。もしかしたら、みんなが幸せになる未来があるのかもしれない。誰も嫌な思いをしなくて、お互いにただ想い合って生きていける未来のことを想像すると、少し気分がよくなった。

 また別の日、たまなつは放課後にある地点に向かって走っていた。その辺に人の姿はない。みんなどこかへ隠れてしまったのか、或いはその舞台に人気のない場所が選ばれているのかはわからないが、早く辿り着かないと見逃してしまう。たまなつは格闘で決着がつかなかったときに出る”アレ”をなんとしてもこの目で見たいのだ。そしてどうやら、今日はその瞬間にギリギリのところで間に合ったらしい。
 「ミラクルミルク……ファンタストーーーーム!!!!」
先端にかわいらしいハートのついた華奢なステッキから、極大の熱光線が発射される。見ているだけで網膜を焼いてしまいそうなほどの光量の「魔法」はキラキラと、真昼の日差しにすらオーバーレイするあでやかな色彩で、その射程に捉えられた怪人を跡形もなく消失させた。
 「おおおおーーーー!!!! カッコイイー!!」
たまなつは戦いが終わったミルクのもとに駆け寄り、目を輝かせていた。
 「あ、たまなつちゃん……危ないからあんまり見に来ないでって言ったのに」
ミルクはまだ白いフリフリのキュートな衣装に変身したまま、少し困った顔をしていた。
 「ムイー!」
そう声を上げたのは、青くて丸っこい体に短い手足と翼をつけ宙に浮く小動物、ムーイだった。たまなつの友人であるミルクは、たまなつ同様猫の耳と尻尾を持ち、薄いベージュのロングヘアをして、本来なら普段はこんな派手な装いはしない、少し内気な女の子だ。

 それが、この別世界からやってきたという謎の小動物のムーイに契約を迫られ、今では魔法少女として時折どこからか町に現れる「怪人」と戦っている。元々ミルクは年齢相応に変身願望を持っていて、お姫様だとか魔法少女だとかに憧れていたので、夢が叶ったと言えばそうなのだが、あくまでも変身することに憧れていただけの内気な彼女が異形の怪人と文字通り格闘するまでに至ったのには、何か相当な葛藤や覚悟があったことは想像に難くない……のだが、それをあまり想像できていないのがたまなつという人物であり、いつも彼女は
 「いいなー、今日も最高だったよーその必殺技! いいなー、私も魔法少女やってみたいなー」
とミルクの戦闘風景を見に来ては羨ましがっていた。しかし、何度ムーイにせがんでも、ムーイは頭を横に振って否定するばかりでたまなつを全く魔法少女に起用してくれなかった。ミルクは契約しているためムーイが何を言っているのか概ね理解できるのだが、たまなつを魔法少女にしない理由についてはムーイは何も語らない。

 「そんなわけで今日もミルクちゃんは最高だったよ。ラスクちゃんも見に来ればいいのに」
たまなつは家に帰って、興奮も冷めやらぬままラスクに今日見てきたものの話をしている。ラスクは台所でインスタントコーヒーを淹れながら、
 「フフ、甘いねー。コーヒーは苦いけどね。君は甘いよ。私がそんな面白そうなところ、見てなかったとでも思ったのかい?」
と、これ見よがしにドヤ顔をして言ってきた。たまなつは怪訝そうに、
 「この前は魔法少女のことは調べてないって言ってたじゃん」
と言ったが、ラスクはコーヒーを一口すすると
 「そうだったんだけどさ、この前君に教えてあげた情報が、いざ教えてみるともう知ってることばっかりだったもんだから悔しくてね。名誉挽回のために一生懸命情報収集してたってわけ。健気じゃない? 私ってさ」
と言ってきたので、たまなつは少し呆れ気味に
 「あー……うん。じゃあ今日は新情報があるってことでいい?」
と尋ねた。するとラスクは、
 「もちろんだとも。君がそれを聞いてくれるのを楽しみにしてたんだ。そうだな、まず……君はそもそも『怪人』がどういう存在なのか、知ってるかい?」
と逆に尋ねてきた。たまなつは首をかしげながら
 「うーん……なんかどっかから湧いてきた悪いバケモンだとしか思ってなかったけど」
と答えた。ラスクはそれを聞いて満足そうな顔をし、
 「そうだろう? そうだと思ったんだ。君ってば細かいことは気にしないからね。でもこれが大事なことなんだ。怪人っていうのは……人々の感情が結実した生命体なんだよ。一体どうやってヒトの感情が実体を持って凝集して、生命体に昇華するのか……そこまではさすがに私にもわからないけどね。とにかくこの怪人っていうのは自分を構成する属性に従って行動する。要するに、怨みでできた怪人はヒトを怨んでいるし、怒りでできた怪人は怒りに身を任せて暴れ回る。とにかくヒトの強い感情なんていうのは大体ロクなもんじゃないから、怪人が出たら誰かが退治しなきゃいけないってわけ。ここまではわかるかな」
と説明をした。たまなつは少し考えて、
 「うん……その誰かっていうのが魔法少女たちってわけだよね」
と答えた。
 「その通り。これまた魔法少女……延いては契約によってそれを世に送り出しているムーイたちにとって何の得があるのかは私にもわからないけど、大抵の怪人は物理的な手段ではなかなか倒せないみたいで、『魔法』が有効打になるってことらしい。君がミルクちゃんの戦闘を見に行ったときいつも必殺技で決着がつくのはそのためだね」
ラスクは続けてそう話した。
 「一度、カリンちゃんが魔法少女が到着する前に怪人を一体戦闘不能になるまでボコボコにぶん殴り続けてたことがあるらしいけど……怪人って頑丈なんだなぁって思ってたよ。そういうことだったんだね」
とたまなつが言うとラスクはとても驚いた表情で
 「え……そういうこと……えぇ……? カリンちゃん、生身で怪人と格闘して圧勝しちゃうのか……明日からもうちょっとご機嫌とった方がいいかな……」
と不安そうに言った。
 「私はカリンちゃんのご機嫌を取れたこと一度もないから、難しいと思う」
たまなつは真顔でそんなことを言う。
 「うーん……いやまあ、いいや。そんな怪人だけど、当然強いのもいれば大したことないのもいるんだけどね、共通してることもある。それは、放っておくと大変なことになるっていうところなんだ」
ラスクはそう気を取り直して説明した。
 「大変なこと?」
たまなつが尋ねると、ラスクは静かにうなずき、
 「怪人は感情から生まれたって言ったろう? だから、放っておくと周りにもその感情を伝播させていく。伝播した感情はさらに怪人を強化して、やがて人々はみんなその感情に飲まれてしまうっていう寸法だ。恐ろしいよね」
と話した。たまなつはラスクのコーヒーを勝手に一口飲んでむせていた。
 「ラスクちゃんブラックコーヒーしか飲まないんだったね……」
そう言うとラスクはニヤニヤしながら
 「こらこら、勝手に人のコーヒーを飲まないでよね。で、わかったかい? 怪人の恐ろしさが」
と言った。するとたまなつは
 「実はカリンちゃんも怒りの怪人なんじゃないのかな……と思ったけど、周りに怒りを広めてないから違うってことだね」
と、周りに本人がいないことを確認しながら言った。ラスクはすっかり呆れ顔で
 「カリンちゃんのことは一旦置いておいてほしいな、話がややこしくなるよ……でもね、実を言うと怪人がどれだけ大暴れしても、彼らの目論見は上手くいかないんだ。それがどうしてかは……君に問題として投げかけるには少し難しい話になるかな」
と話した。たまなつは怪訝な顔をして、
 「それは、魔法少女が阻止しちゃうから上手くいかないってことじゃないの?」
と尋ねたが、ラスクはまたにやりと口角を上げて、
 「もちろん、それもある。けど本質はそこじゃないんだ。その原因は、怪人の能力が抱えてる根本的な欠陥に起因するものなんだよ。彼らの発生自体がある種の現実改変によるもので、感情の伝播もまた広義の現実改変によるもの……これは範囲が広範で予測がつかないから、彼らの発生や能力の行使を阻止すること自体は難しい。しかし……」
ラスクはそう言うとコーヒーを一口すすり、神妙な顔をした。
 「それが仇になるのさ。土台無理なんだ、現実改変で生まれた怪人自身が、さらに広範に渡って無差別に現実改変を繰り返すなんてことはね。だから、破綻する。改変される部分とされない部分があちこちで隣り合って、整合性が取れなくなる……『現実断層』が発生してしまう。そうなれば怪人も無事じゃすまない」
ラスクがそう言うと、たまなつはふーん、とつまらなさそうな顔をして
 「それじゃあ、魔法少女が出て来なくても怪人は自滅しちゃうってことなんじゃないの?」
と尋ねた。するとラスクはチッチッチ、と指を振って、
 「怪人が自滅するだけで済めばいいけどね、現実断層が発生したら辺り一面目も当てられない大惨事になるんだ。例えばヒトの体の部位が無造作に……いやいや、こんな話は君には恐ろしくてとてもできないよ。でもまあ、魔法少女が怪人を倒しに来るのはそれほどの恐ろしい事態を防ぐためとも言えるね。現実断層は放っておいたらあっという間にそこらじゅうを無茶苦茶にしちゃうんだ。もしかしたら、ムーイたちも現実断層の発生を阻止したいから契約を迫ってるのかも……まあ、その辺はわかんないけど」
ラスクがそう話した頃には、たまなつはミルクの戦うところを見て面白がっていた自分を振り返り、ほんの少しだけ反省していた。魔法少女ってそんなに大変な相手と戦っていたのか、と。

 そう、いつかの日の、そんな出来事をたまなつは思い出していた。今、人目につかない住宅街の奥まったところにある無人の倉庫前で、穏やかな休日の昼下がりのこの瞬間に。目の前には、あの日と同じくフリフリの白いドレスに身を包んだミルクが、地面に横たわり身じろぎ一つしなくなっている様子が、まるで嘘のように鮮明に目に飛び込んできている。こんなことはあり得ない。こんなことが許されていいはずがない。たまなつは思考が止まり、きっとこの光景は現実ではないと思っていた。だって、ミルクちゃんはぴくりとも動かないんだ。時間が止まった夢を見ているんだ──
 「ムイー!!」
と、そんなたまなつの現実逃避を真っ向から打ち破る声がする、ムーイが、泣きながら短い手足で必死にミルクを揺さぶっている。たまなつは思わずはっとして、自分もミルクの体をゆする。
 「ミルクちゃん!! しっかりして、ミルクちゃん!!!!」
だが、ミルクは答えない。
 「大丈夫ですよ。ちょっと眠っているだけですからすぐに目を覚まします。だってほら、変身が解けていないでしょう? ミルクさんの体に問題のないことのそれが証拠です。私だって急にこんな昼下がりに襲い掛かられたらあんまり驚いて不本意なことをしてしまうこともありますが、私はただヒトの幸福になりたいだけですから乱暴なことはぜっっっっっっっったいにしないのです」
やや早口でそう話したのは、短い金髪の見知った少女だった。しかし、これまでとは違いその頭の上には素朴な金色のヘイローを浮かべ、純白のワンピースに身を包み、また純白の翼をもつ天使の姿をしている。
 「サナティア先輩……?」
たまなつは向こう側に佇む少女に向かって尋ねた。
 「はい。私はサナティアですよ」
サナティアは答えた。たまなつは、サナティアの本当の姿を目の当たりにしてカリンから聞いた話を思い出していた。例え下級天使であっても、ヘイローと翼をもつ天使は人間や獣人よりも遥かに上位の存在で、竜人族や魔族と同様に、もめ事が起こらないようカリンですら敬遠しているのだという。
 「いつかこんな日が来るって、わかっていたんです。それだから私は穏当に、誰も傷つけず、ただヒトを愛し続けてきたのに。でもこんな日は来てしまうんです。それならば私は、全力で抵抗するしかないじゃないですか。自分の全てをかけて、暴力の一切を否定して、しかし戦いには勝利しなくてはいけない」
サナティアは極めて冷静に、穏やかな表情のままそう話した。たまなつはその様子が何かあまりにも異様に見えて混乱し、冷や汗が出てきていた。
 「ムーイくん……ねえ、この人……『怪人』なんだよね?」
振り返ってムーイにそう尋ねると、ムーイは激しく頭を縦に振った。
 「やっつけなきゃいけないんだよね……?」
続けて尋ねると、ムーイはまたさらに力強く頭を縦に振った。
 「私はこれほど悲しく思ったことはありません。この世の全ての間違いが、今日と云う一日に集約されていて私に襲い掛かってきているかのようではありませんか。それにもかかわらず、ミルクさんは私に向かってステッキを振りかざすのをためらっていました。なのに、それなのに、そこのムーイという子は私が『怪人』だというから、彼女は仕方なく私に襲い掛かってきたのです。あんまりかわいそうでかわいらしくて、そうですね、もしも嫌々乱暴なことをさせられている子がいたら」
そう言うとサナティアはたまなつに向かってゆっくりと歩いてきながら、少しトーンを落とした声で
 「あなたはどうしますか」
と尋ねてきた。たまなつは全身が総毛立つような感覚に襲われ、思わず身構えた。
 「大丈夫、そんな難しいことを考える必要はありません。一般的なヒトにそれを安全に制止させるのは少し無茶で、私はそれだから彼女を気遣ってほんの少しお休みしてもらっただけなのです。幸せな夢を見て、目が覚めたら私に乱暴なことをしようとしていたことなんてすっかり忘れてしまって、私は彼女とお友達になって彼女の幸せの一部になることができるのです。それのどこがいけなくて、どうして私が傷つけられなければいけないんでしょうか。こんなことは間違っていると思いませんか?」
サナティアはそう話し、穏やかな表情で首をかしげながらたまなつに尋ねてきた。もし彼女の言っていることが本当であれば、彼女を退治する必要は何もない。その根拠と言えば、せいぜいムーイが彼女を「怪人」と認定していることと、それと……
 「ど……どうして、先輩は人に夢を見せるの?」
たまなつは苦し紛れに疑問をぶつけた。するとサナティアは笑顔になり、
 「それは素晴らしい質問ですね! 本当は夢を見せる必要なんてないんです。ただ、眠りの中で少しだけ幸福を垣間見ることができれば、私と同じ道を歩む足掛かりになるかも知れませんからそうしているだけなのです。ただ私がヒトの幸福になること。乾いた月が海に溶けていくように、皆さんが同じ幸せを共有できるようになること。それが私に与えられた使命の全て。だから私は、フォルトゥナの輪の皆さんが『楽しい夢』を見たら……『私と同じ考えを持つように』したのです。とっても素敵だと思いませんか? 時折、私欲にまみれた夢を見たがる方もいましたから、少し調整が必要なこともありましたが……お互いがお互いのためを思い合う夢を見てもらったら、みんな自然にそのような世界を望むようになるのです。もう誰も、傷つけあうこともなく、争い合うこともなくなるんですよ」
それを聞いてたまなつはラスクが言っていたことを思い出した。
現実改変──
そうだ。サナティアがやっていることは、幸福な夢を、それも恐らくは奉仕と相互理解を重んじるサナティアの思想に沿った「幸せ」に基づく夢をフォルトゥナの輪の活動に参加した人々に見せて、本人の人格とサナティアの思想の間にある「ギャップ」をなるべく軽減した上で、現実改変によってそれを埋め合わせる、という行いだったのだ。
 「それはサナティア先輩が、怪人だから……現実改変ができるから、そうしているの?」
たまなつはついに直接そう尋ねた。すると、サナティアは特に意外でもなさそうに
 「はい。私はヒトの『幸福がほしい』という願いが結実することによって発生した『怪人サナティア』なのです。ですから、私は誰しもが望んだことを、最も合理的な方法で行っているんですよ。それなのに……私は『怪人だから』という理由だけで、この世から消滅させられようとしている。それに、目の前で問答をしているあなたは私の調整を真っ向から拒否したことがある。ヒトの幸福にとっての敵となるのは果たして誰だと思いますか?」
と尋ねてきた。
 「拒否……? あ、そういえば……」
たまなつは、以前見た夢の内容を思い出したわけではなかった。だが、身近なある現象を思い出した。
 「私のクラスメートが何人か、学校に来てないの。最初は風邪でも引いたのかと思ってたけど、よく聞いてみたら……眠ったまま目を覚まさないんだって。それも……もしかしてサナティア先輩が関係しているんじゃない?」
たまなつがそう尋ねると、サナティアの顔から穏やかな笑みが失われた。
 「彼らは、少し調整に時間がかかっているだけです」
サナティアはそう答えた。
 「それはなぜ? 先輩と同じ考えを持つようにするのが難しいってこと? それなら……例えばもし、うちのカリンちゃんに夢を見せようと思ったら、目を覚まさなくなっちゃうの?」
たまなつが続けてそう尋ねると、
 「……そうですね、あまりに利己的であったり、自我が強かったり、強い暴力性を持っていたり……そういった方の調整には時間がかかることもあります。ですが、いずれ必ず目を覚まします。そして……彼らもまた、ヒトの幸福となるのです。カリンさんも同じです。あなたのお姉さんを愛するのと同じようにあなたを慈しむようになるでしょう。それはたまなつさん、あなたにとっても幸せなことではありませんか?」
たまなつはそう尋ねられ、ほんの少し、おぼろげではあるが自分にとても優しいカリンの姿が想像できた。そこはかとないデジャヴと共に。だが……
 「それは、少し違うと思う」
とたまなつは答えた。そして、
 「私が変わらないでカリンちゃんだけ変わるのは、都合が良すぎるよ。それじゃあ私の幸せのために、元々のカリンちゃんを否定していることになるから」
と続けた。するとサナティアは少しだけ悲しそうな顔して、
 「それであれば、あなたも変わればよいのです。同じ思想を持つ者同士は惹かれ合い、共感し合い、等しく愛し合うことができます」
と言った。たまなつは今や迷いなく、
 「それは本当に……この世界の誰もが望んでいることなの? 自分を捨てて、自分の好きな人の個性も失って、それで……みんな同じになって、本当に幸せなの?」
と尋ねることができた。それを聞いたサナティアはショックを受けたように右手で顔を覆い、苦痛に歪んだ表情を見せ始めた。
 「あなたは、利己主義と搾取と暴力を肯定し、それを全体の目指すべき幸福と置き換えているに過ぎません。あなたのような方がいるから……あなたのような方が……”この世界そのものであるから”私は……私の力は……!!」
そう言うとサナティアのヘイローの色がおもむろに美しい金色から鮮血のような色に変化し始め、純白の翼は液体を吸い取る筆のように羽の先からじわりと浅黒い色に染まり始めた。
 「ああ、なんということでしょう。よりにもよって、今なのですね。まだ、私はなにもかも始めたばかりだというのに。毎朝顔を洗って歯を磨いて着替えをして学校に行って授業を受けてお話をして皆さんとお友達になってご飯を食べて一緒に帰って」
サナティアは自分の体の異変を目の当たりにした途端、止めどなく一日のルーチンをしゃべり始めた。それに対して
 「ムイー!!」
と、ムーイが必死に叫んでいる。周囲の空間の様子が何かおかしい。空気が、空間が、位相が、無造作にズレ始めているのが目で見える。
 現実断層──
ラスクの言っていたことが頭をよぎる。一目見ればわかる。この現象は終わりの始まりだ。たまなつはその瞬間、覚悟を決めた。

 「しらたま流抜刀術」
たまなつはゾメが施した魔法で隠していた刀の鞘を握ると鯉口を切り、抜刀を宣言した。やるしかない。魔法少女に変身できなくても、派手な必殺技が使えなくても、ここで終わらせなければならない。現実断層が手遅れになる前に、サナティアを無力化しなくてはならない。たまなつは抜刀と同時にアスファルトをえぐるほどの踏み込みでジグザグに前進し、不可視の速度でサナティアに斬りかかった。その技の名は
 「猫跨ぎ──」
入った。しかし、直立したサナティアの体には傷はつかず、その手ごたえは刃を当てたときのそれではない。バサッという音と共に跳躍して後退し、自分の獲物を見てたまなつは驚嘆した。握っていた刀が、大きなネモフィラの花束に変わっていたのだ。
 「私は、暴力を決して許すことがないと言ったはずですよ」
そう言ってサナティアが呼吸を整えると、一旦現実断層の発生は沈静化した。どうやら力をたまなつの持っていた刀に収束させたお陰で一時的に暴走を免れたようだ。たまなつは花束を地面に投げ落とすと、次にサナティアに直接飛び掛かった。
 「しらたま流柔拳法」
たまなつがそう宣言してサナティアの襟元と袖を掴んだとき、急に天地がひっくり返ってたまなつは地面に寝かしつけられるように倒れ込んだ。
 「水掬い……でしょうか。私には通用しません」
サナティアはそう言うと、ふらふらと歩いてその場を離れようとしていた。たまなつは心の中で己の無力を嘆きながらも立ち上がり、果敢にその背中に飛び掛かろうとする。しかし、振り返ったサナティアの目力一つでまるで金縛りにあったように気圧され、その場から動けなかった。
 「だから、これだから、ダメだったのです。力を使えば使うほど、私は太陽に近づいてしまう。わかっていました。この天使の翼は、蠟でできた翼だったのです。それで私は翼が溶けないよう、低空を広く飛び回っては、幸福の輪を少しでも広げようと足掻いてきたのです。けれどもう、これでお仕舞いです。私はもうじき地面に堕ちるのです。たまなつさん、すみませんがミルクさんとムーイさんを連れて遠くへ離れてください。私は一人で、誰にも痛みを与えることなく翼もろとも燃え尽きなければなりません」
そう言ったサナティアのヘイローは金色と赤色が短い間隔で入れ替わるようにチカチカと点滅し、翼は再び浅黒く染まり、今度は末端から腐り落ちるように液状化し始めていた。再び空気が震え、周囲の空間が静かにひび割れ始める。サナティアはその進行をなんとか抑えているようで、一歩一歩ゆっくりとその場を離れていく。
 「ムイー!!」
ムーイがまだ叫んでいる。たまなつはムーイの言葉の意味を直接は理解できなかったが、その様子から何が言いたいかは察することができた。このままサナティアがこの場から離れていったとしても、大きな被害が発生することは免れない。人気がないとはいえ、ここは住宅街の一角なのだ。間に合わない。ここで、今ここで阻止しなければならない。万策尽きたかと思われたが、周囲を見渡した時、たまなつはあるものを発見した。それは、ミルクの傍らに落ちているかわいらしいハートのついた華奢なステッキだった。ミルクは眠っているが変身が解けていないため、まだステッキは生きている。たまなつはそれを拾い、サナティアの方に構えた。
 「サナティア先輩!!」
たまなつが叫んだ。本当は嫌だ。こんなことはしたくない。だけど……そんな葛藤の中、サナティアがゆっくりと振り返った。
 「それは……やめてください。あなたはそれを使うことができません。あなたがそれを使えば、生命を犠牲にしてしまう。どうか、やめてください」
そう制止されたが、たまなつはそんなことは言われなくてもわかっていた。以前ミルクにも同じことを言われたことがある。魔法少女として契約した者以外は、魔法少女の武器を使用するのに必要な魔力のパスが通らず、使おうとすると生命エネルギーが魔力に変換されてしまうと。その話を思い出すまでもなく、たまなつはそれが紛れもない真実だということを既に感じ取っていた。気功を学んだ経験のあるたまなつは自分の体内の「気」の流れを感じ取ることができたが、このステッキを握る両手に向かって「丹田」から気が集まっている。生命エネルギーが、既に吸い寄せられているのだ。覚悟を決めて両手に力を込めたその刹那、ステッキに気が一気に流れ込み、たまなつははらわたの一部がごっそり削り取られたような強い痛みを覚え、膝をつきそうになった。
 「がはっ……」
まだ握っただけでこれなのだ。技を繰り出したら、体がどうなるかわからない。そして、視界が一瞬ブラックアウトし、再び前が見えたと思ったとき、たまなつは何もない真っ白い空間に立っていた。
 「君は、全てわかっていてそのステッキを手に取ったんだね」
後ろから誰かの声がする。振り返ると、そこには青い髪と、ミルクの魔法少女の衣装に似た青いドレスの小柄な少女が立っていた。たまなつは、その少女をムーイだと認識していた。
 「君だけなら逃げられたかもしれないよ」
ムーイはそんなことを言い出した。
 「どうしてそんなこと言うの」
たまなつが尋ねると、ムーイはただ
 「ミルクちゃんと君が逆の立場だったら、ミルクちゃんが君を助けるために命を賭けるかどうか、僕にはわからないから」
と答えた。たまなつはそれを聞いてあはは、と笑い、
 「賭けないかもね。でもいいの。ミルクちゃんはそれでも大事な友達なんだ。見捨てるなんてありえないよ」
と言った。それを聞いたムーイは少し残念そうに、
 「君を魔法少女にしてあげられなかったのは、君の精神構造が通常のヒトのそれではなかったからなんだ。ごめんね。こんなことになってしまって」
と話した。たまなつはそれを聞いて
 「よくわかんないけど、私頑張るから、見ててよね」
と答えた。その直後、視界が再び現実のものに戻った。震える全身に精一杯の力を込める。痛みにはもう慣れた。あとは、撃ち込むだけだ。
 「やめなさい!!」
サナティアはそう叫ぶと、ついに向こうからたまなつを阻止しようと、朽ちた翼を広げ一直線に飛行して来た。しかし、ここでやめるわけにはいかないのだ。たまなつは素早く身をかわし、ステッキを手に飛び回る。一体なぜだろうか。体がとても軽い。希望に満ちた気分になってくる。これが魔法少女の見ている光景なのだろうか。今にもひび割れて落ちそうな空の色は目に焼き付くほど明るく、きらきらとした日差しの中、たまなつは魔法の力でひらひらと優雅に踊り続けているようだった。そして、ついにサナティアの動きが鈍った隙を突き、その全身を射程に捉え、必殺技を放つ。
 「ミラクルミルク……ファンタストーーーーム!!!!」
たまなつの叫び声と共に、極大の熱光線がステッキの可愛らしいハートの装飾から発せられる。たまなつは一瞬意識を失いかけたが、方向を制御しサナティアに光線を命中させた。
 「あぁっ!!」
サナティアは光線に焼かれているが、まだ無事だ。
 「やめてください、あなたの生命力では足りません!!」
サナティアが叫んでいる。周囲の空間の歪みも少し先ほどより激しくなってきている。ダメなのか。たまなつは悲鳴を上げる自分の体から、このままエネルギーを放出し続けても命が尽きるだけだということを切実に感じ取っていた。脂汗が頬を伝う。そのとき、
 「ムイー!!」
とムーイがたまなつの両手の近くに飛び込んできた。一緒にステッキを握っているようだ。その瞬間、たまなつは体が軽くなるのを感じた。ムーイは小さいが、体にかなりの量の魔力を蓄えているらしい。熱光線の出力も上がる。これならいけるかも知れない。たまなつはさらに強くステッキを握り締めた。
 「ダメです、これでは私が消える前に、現実断層が制御できなくなります」
サナティアの言葉の通り、周囲の空間はもはや音を立て、ガラスが割れるように崩れ始めていた。まださらに出力を上げるしかないのか? しかし、ムーイの手を借りてもなお、これ以上の出力増加をすれば即死するかもしれないという嫌な思いがたまなつの脳裏をよぎっていた。しかしもはや、背に腹は代えられない──そう思っていた時だった。
 「たまなつちゃん、ごめんね!!」
ガッとたまなつの手を覆うように、誰かが一緒にステッキを握る。その手はかわいらしい白い手袋に覆われていた。
 「ミルクちゃん!」
たまなつが叫ぶ。ミルクが起き上がり、加勢しに来たのだ。
 「おおおおおおおぉおおおおお!!」
たまなつは叫ぶだけ叫んだが、もはや彼女の生命力は消耗しきっており、最後の一押しは契約者であるミルク本人の繋いだ魔力のパスからの供給にゆだねられる。どうやら供給が通ったらしく、熱光線はさらに出力を増した。そのとき、サナティアは何かを言っていたかも知れない。しかし本当に何かが聞こえたのか、聞こえたような気がしただけなのか、たまなつにはもうわからない。握っていた手の力が抜け、たまなつは完全に意識が消失し、その場に倒れ込んだ。

 たまなつは、今度は真っ黒い空間に一人立っていた。何も見えないし何も聞こえないような気がしていたが、自分の体は見えるし、音が聞こえないのは何も音を立てていないからかもしれない。
 「あー」
たまなつが声を出すと、それは自分の耳に届いた。どうやら見えるし聞こえるらしい。しかし、辺りは真っ黒で何も見当たらない。
 「私死んじゃったのかな」
そう呟くと、
 「それは困るよ」
と後ろから声がした。そこには、服装も顔立ちも一見たまなつに似ているが、顔の横の髪が跳ねておらず、猫の耳と尻尾がついておらず、代わりに猫耳ヘッドホンを首からかけた少女が立っていた。見比べればたまなつとは別人のはずなのだが、たまなつは彼女を自分以外の誰かとは認識できなかった。そしてその声は録音した自分の声を聞いているようだった……デジャヴを感じる。
 「私じゃん」
たまなつは言った。
 「そうだね。だから言うけど、無茶しすぎだよ」
少女は少しムッとした表情で言った。怒られた。
 「自分に怒られるくらい無茶しちゃったんだね、私」
たまなつは大して悪びれるでもなくそう返した。
 「私は自分に甘い方だけど、無鉄砲すぎるのは看過できないね。あなたが死んじゃったらなんにもならないんだから」
そう言うと少女はたまなつの元まで歩み寄って来て、たまなつの右手を両手でぎゅっと握った。
 「でも、えらいね。友達のために命を賭けられるなんて……いや、でもやっぱり困るな。まあ、私のことはまた忘れて目を覚ましてあげて。みんな心配してるよ。じゃあね、お疲れ様」
少女はそう言うとたまなつと目を合わせ、ニコッと笑った。その瞳の中には、星の輝きも、明けの夜空のような煌めきもない。それはまるで、人間の瞳のようで──


 「あ、目ェ覚ましたわよ!! 姉さん、医者呼んで医者!!」
カリンが大声で叫んだ。
 「たまなつちゃん!! よかった、ナースコール押すのよナースコール!」
あまなつの声だ。少し視界がはっきりしてくる。多分、これは知らない天井だ。体をゆっくり起こすと、周りにはカリン、あまなつ、ラスク、そしてミルクがベッドを囲むようにしていた。
 「よかった……」
ミルクはほっと胸をなでおろした。ラスクは言葉にならず、涙目でたまなつの方を見つめているばかりだ。
 「私、生きてるね」
たまなつがそう言うと、
 「ふざけんじゃないわよ全く心配させて……ていうか体起こしてんじゃないわよ寝てなさい!」
とカリンに怒られた。しかし、それより気がかりだったことがあった。
 「ねえ、サナティア先輩は?」
たまなつはミルクの方を見て言うと、ミルクはただ静かにうつむいた。それでたまなつは、しばらく周りのみんな……いや、カリンとあまなつがワイワイ言っている声が耳に届かなくなり、ぼんやりとしてしまったのだった。

 結局検査も兼ねて数日入院することになったのだが、その日のうちにたまなつの知り合いの多くが見舞いに来てくれたし、パパのしらたまもたまなつの好きなお菓子とジュースを持って病室に訪れてくれた。たまなつはそれで大層喜んだが、なんとなく心にはぽっかりと、穴が開いたようだった。
 それからたまなつは無事退院し、退院祝いに回転寿司に連れて行ってもらったし、カリンは鯛焼きを買ってくれたし、ラスクはたまなつのパーカーを涙と鼻水でベチョベチョにしたし、その夜は久々に家のベッドで眠ることとなった。もう寝ようというとき、たまなつはふとサナティアからもらったキーホルダーのことを思い出し、机の引き出しを開けた。キーホルダーはちゃんとそこに入っていた。そしてそれを枕元に置き、布団をかぶってそっと目を閉じた。
 翌日、たまなつがベッドから体を起こすとすぐ、外で雨が降っている音が聞こえてきた。カーテンを開けると空はどんよりしており、大粒の雨が降っていた。もしかして、一日の始まりの夢を見ているのではないかとたまなつは頬をつねったが、痛い。キーホルダーが昨夜枕元に置いたままの状態で置かれているのが目に入る。これは、現実だ。たまなつは心底悲しくなり、キーホルダーをぎゅっと握るとそのまま再び机の引き出しにしまった。一階に降りて洗面所で顔を洗っていると、カリンが後から起きてきた。今日は学校があるので、寝起きはそれほど悪くないのだが、たまなつはぼんやりしていて挨拶をしないでいた。
 「ちょっと、朝はおはようでしょ」
カリンが言う。どの口が、と普段なら思うところだが、たまなつは反発する気にもならず
 「ん、おはよ……」
と答えた。カリンはただ、
 「元気ないわね」
と言ってたまなつの頭を雑に撫でた。たまなつはそれが意外で、ほんの少し嬉しかった。食卓に着くと、キッチンの方からラスクが話しかけてくる。
 「おはよう二人とも、ハハ、みてよ。私が当番のときは必ずトーストにするようにしたんだ。こうすればご飯炊き忘れて怒られることはないからね。我ながらいいアイデアだよ」
それにたまなつが答えるより先に、
 「食パンそんなに買ってたらコスパ悪いじゃない、もうー」
とあまなつが文句を言った。
 「食パンはね、私が自腹で買ってるんだ。ご飯炊くとさ、早起きしなきゃなんないからね。時間と手間を省くために自分でパンを買っているんだよ。それならいいでしょ」
ラスクは何故か得意げだった。
 「うーん……まあ、それならいいけど……ねえ、たまなつちゃんはどう思う?」
あまなつに急に話しかけられ、たまなつはというと
 「え、うん……いいんじゃない」
としか答えられなかった。

 学校の授業は元々面白くはないのだが、今日の憂鬱さといったらもうどうしようもない。こんなことならいっそ、誰も彼女のことを覚えていなければよかったのに。あの光の中に、その存在そのものが相反転して全てが「なかったこと」になれば気が楽だったに違いない。学校では、これまで目を覚まさずにいた、欠席していた生徒たちの意識が戻ったという話があちこちで聞こえていた。カリンと一時はあれほど仲良くしていたあのクラスメートは再び陰険な性格に戻り、カリンを遠くから睨みつけている。そして、廊下の掲示板に貼られた「フォルトゥナの輪」の活動募集は、既に終わった予定のものが貼られたままで、それを眺めている生徒が
 「サナティア先輩、行方不明らしいよ」
 「えー、休んでるだけなんじゃないの?」
 「いや、なんか誰も連絡取れないって……」
という会話が聞こえてきた。たまなつはそれで胸が張り裂けそうになり、足早に去って行った。怪人サナティアは死んだのだ。全て善良だった彼女の行いはあっという間に風化し、その生きた証はもはや吹けば飛ぶような記憶の断片と、たまなつの心にできた傷しか残っていないようだった。しょうがなかった。彼女は怪人だった。ヒトを無理やりに改変していたんだ。それはきっとみんなが本当に望んでいたことではなかったはずだ。それに、現実断層ができるのは防がなければいけなかった。そうでなくとも、既に本人が限界を迎えていた……どれだけ自分に言い聞かせても、揺るがない一つの思いがあった。
 「私が彼女を殺したんだ」

 たまなつは放課後、以前寝っ転がっていた川の近くの土手にやってきた。今日は雨が降っていて寝っ転がることはできないから、橋の下で雨に当たらないように一人でうずくまっていた。考えれば考えるほど辛かった。サナティアが生きていたときは、彼女の身の周りのみんなが幸せそうだったし、彼女自身も幸せそうだった。でも今や、誰も幸せそうじゃない。サナティアの施した現実改変の影響がなくなり、善い思想を持たされていた人々は再び利己的な醜い振る舞いをするようになった。サナティアがいなくなってフォルトゥナの輪を管理する者もなくなり、彼女を慕っていた人々は悲しみに暮れている。自分もある意味ではその一人で、しかもたまなつはこの思いを誰にも打ち明ける気にはならなかった。ついさっき自分が考えていたような「仕方なかった」という言葉をかけられることが目に見えていたからだ。そんなことはわかっている。でも本当に仕方なかったのだろうか? 自分が接触したことが彼女を追い詰め、寿命を縮めたのではないだろうか。現実断層が起こらないよう、誰かの助けを得ることはできなかったのだろうか。或いはせめて、現実改変など行わなくても、彼女が健気に、慎ましやかに、天使のように笑って……生きていくことは……そんなことを考えていると、たちまちたまなつの目からは涙が流れ落ちていた。
 「雨が降っているね」
誰かが話しかけてきた。いつの間にか近くに立っていたのは、青いドレスの小柄な少女、ムーイだった。
 「あ、ムーイくん……その姿っていつでもなれるの?」
たまなつは袖で涙をぬぐいながら言った。
 「普段はあんまりならないんだけど、君にはこの姿じゃないと言葉が通じないからね。ミルクちゃんの代わりに君を探しに来たんだ。ミルクちゃんも少しふさぎ込んでしまって、本当は君にたくさんお礼を言いたいんだけど時期が悪いと思ってるみたい。ごめんね」
ムーイはあまり表情を変えずにそう話した。
 「そうなんだね。大丈夫……いや、一つ聞いていい?」
たまなつがそう言うとムーイは
 「何?」
と尋ねてきた。たまなつはなんとなく言いにくそうにしながら、
 「サナティア先輩、あんなにいい人だったのに……怪人だから、どうしても倒さなきゃいけなかったのかなって。ミルクちゃんも少しためらってたらしいし……」
と尋ねた。するとムーイはまた表情一つ変えず、
 「怪人を倒さなくていい理由なんて一つもないよ」
と答えた。たまなつは少し腹が立ち、
 「けど……サナティア先輩はみんなを幸せにしようとしてた。ヒトの幸福になることをずっと夢見ていて、あんなに頑張ってたんだよ。それでも、怪人だったら生きてちゃいけないの?」
と、立ち上がってムーイと向き合って尋ねた。ムーイは、
 「そうだね。生きてちゃいけない」
と答えた。たまなつは思わずムーイの胸ぐらを掴み、
 「人でなし!! 魔法少女だって人の幸せを守るためにいるんじゃないの!?」
と尋ねた。ムーイは静かに目を閉じながら、
 「現実断層はこの世界そのものを壊してしまうんだ。君も見たでしょ? アレはそういう存在なんだ。『サナティア』という個人、あるいは種族名をした天使の少女はこの世のどこかにいるはずだけど、アレはその本人とは関係がない。ヒトの言葉を理解しているように振る舞うだけの怪物なんだよ」
と言い放った。たまなつは瞳孔がキュッと閉まり、左手を目いっぱい握りしめて振り上げたが、ふと
 「私は、決して暴力を許すことがない」
というサナティアの言葉が脳裏をよぎり、振り上げたこぶしをおろした。そしてやるせなさに胸が詰まり、掴んでいたムーイを離すと、雨の中を駆け抜けていった。

 全身ずぶ濡れになりながらも、もはや何も気にしていない。こんなのはあんまりだ。結局誰も幸せになってない。誰の願いも叶ってはいない。ただ、「壊されなくて済んだ」だけだ。一体誰が悪いんだろう。どうしてこうなってしまったんだろうか。誰がこの気持ちを分かってくれる? 考えても無駄だった。全部おしまいなんだ。この世の誰も、彼女のようにはできないのだから。耳もしっぽも長い髪も振り乱し、靴は地面を蹴るたびに水しぶきを上げている。
 たまなつが向かった先は、あの小さな公園だった。サナティアと一緒に見た景色は今や大雨の中、今日もただ平穏を装っている町の様子がよく見える。
 「私はここから見える光景が好きで時折こうして一人でこの公園に来るんです」
 「誰もがヒトの幸福となるその時を夢見ているのです。すると胸がすく思いになります。私の幸せが理解できますか?」
悔しかった。理解できたからこそ、それを自分の手で壊してしまったからこそ、取り返しのつかないことへのもどかしさがたまなつを苦しめた。
 「うわぁあああああああああ!!!!」
たまなつは泣きながら、下界の町に向かって大声で叫んだ。その叫びは誰にも届くことなく、雨の中に吸い込まれていった……ように思えたが、
 「ちょっと、うるさいわよ」
後ろから声がした。カリンの声だった。
 「カリンちゃん……なんでここに?」
たまなつは振り返ってそう尋ねた。涙と雨と鼻水でベチョベチョの顔を見たカリンは
 「何よ、ひどい顔じゃない……アンタが走り去っていくのが見えたから追いかけてきたのよ。なんか嫌なことでもあったの?」
とたまなつに歩み寄って来て尋ねた。たまなつは肩を震わせながら、濡れた袖で濡れた顔をぬぐい、
 「うん……」
と答えた。するとカリンは差していた傘をたまなつに差し出して言った。
 「帰るわよ」

 雨はただ、町に塗りたくられた甘い善意を洗い流すように降り続けている。町は今日も、混沌とした人々の善意と悪意の煮凝りの中で、沈黙を保っている。「本当の幸せ」に目を向ける者はもはやなく、その日暮らしの小さな幸せを拾っては捨てるヒトの営みは、きっとこれが”正常”なのだ。しかし既にたまなつですら、そんなことを考えるのには疲れ切ってしまった。その是非を問うには、彼女の脳みそは単純すぎたとも言えるし、ヒトの幸福の行く末などという重責をたった一人で担える人物など、いるはずがないとも言える。それが真に「怪物」でない限りは。
 帰り道、たまなつとカリンは一言も言葉を交わさなかった。たまなつはいつか、サナティアに言われたことをカリンに話すかもしれないし、話さないかもしれない。ただ今は、自分の手で掴んだ日常を生きていく。何も約束されていない、誰の手も加わっていない未来に向かって──

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