「さぁて、困ったのう……」
狐の耳と尻尾を持ち、髪は長い緑色で青と白の巫女装束のような服に身をやつした一人の少女が呟いた。彼女の名は千春という。彼女は見た目こそ少女のようだが、その正体は自称齢数千の狐の大妖怪である。長い年月の間に神仙術や道術を修めた彼女は、ある一人の人物と対峙していた。
「別に困ったことはないでしょう? 現に私はじっとしているんだから」
仄暗い洞穴の壁に、無数のお札とともに磔になった、長身のハーピィの女性が答えた。短い青い髪に、鮮やかな青のドレスと羽に身を包んだ彼女の名はミルヌーヌであった。
「うんにゃ、ハッキリ言ってワシはもうお手上げじゃ。できればこのままどこかへ行ってしまいたいわい」
千春は文字通りお手上げ、といったポーズを取っていた。脂汗が頬を伝っている。
「あら、てっきり私とお話がしたいものとばかり思ったけど、どこへ行くつもり? 私はせっかくだからもう少しお話したいんだけど」
ミルヌーヌは磔になったまま落ち着き払ってそう話した。彼女は一見千春の術によって完全に身動きを封じられているように見えた。しかし、
「ワシもできればめいっぱい話がしたいが……恐ろしくて仕方がないんじゃよ。お前さんは何故、そこから”動かずにいる”? ワシのやった札なぞ、今のお前さんからすれば厠のちり紙ほどの拘束力も感じられんじゃろうに」
千春は困惑し、恐れおののいていた。その見た目の状況に反して、実はミルヌーヌは封じられてなどおらず、いつでも自由に動けるはずだと彼女は知っていたからだ。にもかかわらず、ミルヌーヌはまるで封じられて動けないようなフリをしてる。その理由がわからなかった。
「まあ、そうね。少なくともトイレットペーパーとは思わないわね。イヤだもの、トイレットペーパーなんて体に巻いてたら。それに拘束力は十分に感じられるわ。これは誰だって動けなくなるわよ。私でなければだけど。だから私はね、これは私を拘束しようとしているんだと十分に理解した上で、その意図に従っているのよ。何か目的があってそうしているんでしょうから、それは知りたいじゃない?」
ミルヌーヌは相変わらず雑談を楽しむような口ぶりで言った。実際に彼女は雑談を楽しんでいた。
「ほう、なるほどのう。対話しようという意志があるわけじゃな。うーむ……そうさな、もちろん目的はある……それはお前さんを無力化して、亡き者にすることじゃ。じゃがそんなことは聞くまでもなくお前さんもわかっておるじゃろう?」
千春はそう言うと無意識に一歩後ずさりしていた。もし万が一ミルヌーヌがそのことをわかっていなかった場合、気が変わってすぐさま動き出すかもしれないと思ったからだ。だが、
「もちろんわかってるわよ。そうじゃなきゃこんな風に拘束しないでしょ。だから私が聞きたいのは、私がそんな目に遭わなきゃいけない理由の方よ。ひどいと思わない? 今日は直売所でネギが安く買える日だったのに。朝ゴミ出しをして、お夕飯のために買い物に行こうとしていた矢先にこんな仕打ち、よっぽど私に強い怨みがないとできないわよね」
ミルヌーヌはそう言いながらもにこにこしていて、敵意をまるで見せていなかった。ただ千春からどんな答えが返ってくるのか楽しみにしているだけであって、そんな仕打ちを受けたことに対しての恨めしさなどは微塵も持ち合わせてはいないようだった。
「それはすまんのう。じゃが……調べはついとるんじゃ。お前さんは……上位存在じゃろ。それも上玉どころの話ではない。これがいい例えかはわからんが……そうじゃな、ありんこの行列があって、そこをバカでかい『ロードローラー』が通ろうとしておったら止めねばならんじゃろ。ありんことしてはな。まあ、ワシらは少しばかり長生きしとるありんこじゃからの、お前さんにしてみれば目に留まらん虫ケラ程度の存在に違いないじゃろうが……長寿の会の同胞として、お前さんにこの島……いや、この世界を轢き潰させるわけにはいかんのじゃ。そう思っとったが……」
千春がそこまで言うと、
「ありんこの力ではロードローラーを止めることなんてできないって、思い出した……といったところかしら?」
とミルヌーヌが言った。千春はがっくりとうなだれるように頷いた。
「そうね、ご長寿の会は一つ勘違いをしているようだけど、私はまだロードローラーを運転してないし、今後するつもりもない、と言ったら理解していただけるかしら? そうしている限り私はみんなと一緒のかわいいありんこでしょ?」
ミルヌーヌはそう言ったが、千春は目を見開いて、背に受ける陽光が作る影に瞳を青く燃え上がらせ、
「いつでもそんなもんを運転できるありんこがおってたまるか!!」
と全身を総毛立たせながら敵意をむき出しにした。そうすると、彼女の大きな狐の尻尾は次第に割れ、それは最終的に九本にまで分かたれた。そして、目の前で何か呪術の印を切ろうとしたときだった。千春は後ろからポンと肩を叩かれた。
「千春、無駄よ。手に負えないってわかってるでしょ」
そこには、頭にはいかつい悪魔の角を持ち、両手に振り回せるほどの長い袖を余らせ、フリルだらけの黒いゴシックドレスを着た長い銀髪の美女が立っていた。彼女は名をゾメという、千春が所属しているご長寿の会のメンバーの一人であった。ご長寿の会とは、長命種や不老不死の者が集う会で、その知見や大きな力を活かしてこの世を脅威から遠ざけるため陰で暗躍しているというスーパー老人会で、千春は神仙術によって不老不死になっているため、ゾメは魔女狩りの時代をも生き延びた長命種であるためにその会員であり、二人は文字通り規格外の力を持ってこの島に出現し何食わぬ顔で一般人に混じって生活していたミルヌーヌを早々に見出し、秘密裏に尋問、処理しようとしていた。千春はその実行役だったのだが、裏で占術によりモニタリングを行っていたゾメがこうして現地に現れたことは、その計画が完全に頓挫したことを示していた。
「おお、ゾメか……すまんのう……ワシが不甲斐ないばかりに……」
千春はそう言うと意気消沈し、一瞬のうちに身にまとっていた莫大な呪力を霧散させ、尻尾もすぐさま元通り一本になってしまった。
「賢明な判断だわ。争いごとは少ない方が嬉しいものね。大体事情は理解したし、きっと私が急に出てきてしれっとしていたから、賢いあなた達はびっくりしちゃったんでしょうね。ごめんなさいね。ふふ。でも正直ここまで苛烈な歓迎を受けるとは予想してなかったわね。ほら、私だってこうして予想を外すこともあるのよ。チャーミングじゃない? だからそろそろ買い物に行かせてほしいのよね。さっきも言ったけど、あなた達は勘違いをしている。あなた達がやっていることが、それをよーく表しているわ。一般人より長く生きて、大きな力を持っているからといってこんな”越権行為”に及ぶあなた達は、この私という脅威と何が違うのかしら? ……まあ、違うわね。私は力があっても越権行為には及んでいないんだから。私の方がずっとまともでしょ。あなた達よりもね。ああ、別に咎めているわけじゃないのよ。私だってあなた達の立場だったらどうにかしようとするでしょうからね」
ミルヌーヌは相変わらず穏やかな口ぶりでそう話した。まだ動き出す気配は微塵も見せていない。
「では私からも一つ聞かせてもらうけど……一体貴女は何をしに来たの? それほどの力を持ちながら、一般人に潜入するようなことをしていたら何か企んでいると思うのは無理からぬことだと思うのだけど」
そう質問したのはゾメだった。
「確かにそう、怪しいわよね。けど疑わしきは罰せずってよく言うじゃない? だから普通にしていれば平気かと思っていたわ。でもこのままずっと警戒されてても悲しいし、正直にお話しておくわね。私の目的はあなた達とそれほど大差ないの。ただそれがあなた達ほど大それた越権行為に及ぶ必要がない、もう少し簡単なものだっていうだけの話。そう、この世界を守る……いい響きよね。でもあなた達はそれ、誰のためにやってるのか尋ねられたら、みんなのためって言うんでしょう? 殊勝よね。とても。うふふ。でも私は違うの。たった一人のためなのよ。その一人が当たり前の暮らしができれば、あとのことはほっといてオッケー。慎ましやかでしょ?」
ミルヌーヌは楽しそうにそう返した。千春とゾメは顔を見合わせ、信じられないといった様子だったが、やがて千春が尋ねた。
「その一人とは一体誰なんじゃ?」
するとミルヌーヌは、
「これは、言っちゃっていいのかしら。ああ、まあどうせダメだったら後で何とかするからいいわよね。教えてあげるわ。『たまなつちゃん』って子よ。確かあなた達と知り合いよね。ふふふ……さ、そろそろいいでしょ。本当にネギが売り切れちゃうから。もう走って行かないと間に合わないかも」
と言うやいなや体に張り付いていた強烈な呪術の込められた無数の札を、濡れた体を乾かす犬のように体を震わせて全て紙くずにした後、平べったい靴でバタバタと走って千春とゾメの脇を抜け、洞窟から出て行った。そして途中で不意に立ち止まり、
「あら? 私の場合飛んで行っても怒られないんだっけ? やだもう、忘れてたわ」
と独り言を言うと、腕の大きな翼を広げ、ばっさばっさと空の向こうへ去って行った。後にはその翼から抜け落ちひらひらと宙を舞う美しい青い羽だけが残された。千春はその羽をそっと拾い上げ、
「ワシ、頭がどうにかなりそうなんじゃが……」
と呟いた。ゾメはそれを聞いて
「あら、おばあちゃまったら。まだボケるには早いわよ」
と言い、千春の肩をポンと叩いた。その刹那、二人の姿はその場から消え、後にはただ、何らおかしなことのない、青空を映す凪いだ海のような平穏な世界の日常が残されるのみだった──