最近思った「星をみるひと」の話

 おはこんハロチャオ、Najikoです。

 皆さん、ゲーム、しますよね。じゃあゲーム、作りますか? と言われると、いや作りはしないかな……という人が多いと思いますが、もしゲームを作るとしたら、というとき何を考えるでしょうか。

クソゲーってなんだ?

 好きなキャラクターを出したい、好きな世界を描きたい、こんな演出がしたい……色々ありますよね。どれもきっと実現したら素晴らしい創作物になるでしょう。が、しかし。ゲームは漫画でもアニメでもありません。ゲームなのです。ゲームであるということは「それをプレイする人がいる」ということです。

 ゲームの歴史は、クソゲーの歴史とも言えます。これまでに一体いくつのクソゲーがこの世に誕生したでしょうか。それらを一つ一つ分析していくことはここではしませんが、誰もが認めるクソゲーというのにはれっきとした共通点というか、外せない特徴があります。

 それはとにかく「ストレスフルである」ということです。そしてここでいうストレスとは、ゲームの難易度の話ではありません。後述の通りバランス調整を怠っているような内容のものはともかく、難しくても良く考えて設計されているために評価の高い名作というのもありますよね。では他にストレスがたまる要素とは何なんでしょうか?

有名なクソゲー

 最近の人は知ってるかわかりませんけど、歴史に残るクソゲーとして名高いゲームの一つにファミコンの「星をみるひと」があります。このゲーム、当時にしては非常に珍しいSFもののRPGで、BGMなんかもなかなか良く、斬新な世界観に惹かれる部分はあるのですが……なぜ「良い題材」がクソゲーの王の一柱として数えられてしまったのでしょうか。それはとにかく、設計と仕様がめちゃくちゃだったからです。具体的に例を挙げてみますが、以下はその一部に過ぎません。

・とにかく不親切
プレイヤーはゲーム開始直後何のアナウンスもなくフィールドに放り出されます。すぐ近くに村があるのですが、この村は隠されておりなんとフィールドにグラフィックが表示されていません。「外部からの襲撃を避けるためサイキッカーたちによって隠されている」という理にかなった設定はあるのですがプレイヤーからすればそんなことは知ったこっちゃありません。最初の村なんですから……

・理不尽な難易度
さっきストレスは難易度の話ではないと書きましたがゲームバランスが崩壊しているような「理不尽さ」になると、それはデザイン上の問題になりますので話が別です。このゲーム、最初の村付近でいきなり超強敵が出現して成すすべもなく死ぬことが多々あります。その他にも作り込みの粗末さによって攻略を阻むような要素が無限に存在します。

・不可解な仕様
選んだコマンドがキャンセルできない、HPの下一桁が表示されない(例:50~59の場合5と表示される)、すばやさのステータスはあるのに行動順が固定されている、「逃げる」コマンドがない、武器は購入時に装備され買い直さないと外せない、弱い武器を買うと0ダメージを連発する(素手だとなぜか最低でも0~3ダメージ出る)、マップの接続がおかしい、フィールドでの移動が異常に遅い、などなどここではとても挙げきれないひどい仕様が山のようにあります。

 ここまで豪華絢爛なクソ仕様がずらっと並び立っているゲームはおそらく歴史上でも稀でしょう。本来であれば上に挙げた仕様、あるいはバグ、または不具合……プレイヤーからすればみんな一緒なんですけどそのいずれか1つでもゲームの評価を大きく下げる要因になり得るような内容ですからね。そして厄介な(?)ことにこのゲーム、クリア自体は可能なのです。「チーターマン」のように未完成であったり、バグで進行不能になることが避けられないわけではない(進行不能に陥ること自体はありますが)のです。ただ当然ストレス要因と不可解さのオンパレードのためクリアしただけでゲームのやり込み雑誌に名前が載ったとかなんとか……

クソゲーのもったいなさ

 結局何が言いたいかというと、このようなゲームを進んで最後までプレイしたいという人は一部のクソゲーマニアに限られるのではないでしょうかということです。おそらく少なめに見積もっても半分くらいのプレイヤーは最初の村に入る前にやめてしまうでしょう。しかし、もちろんこのゲームにはいいところもあって、プレイヤーキャラは途中で最大4人まで増えるし、それぞれESPと呼ばれるサイキックの技を習得するという普通に作られている部分に加え、戦闘中は画面の下にプレイヤーキャラクターのグラフィックが表示されるのですが、それがキャラのレベルに応じて何段階か成長する(幼い姿だったのが少し凛々しい少年少女になる)とか、戦闘BGMもゲームの進行度合いで変わったり、あとは後にかの名作MOTHERで同じようなシステムがありましたが、テレパシーを使ってNPCの本音を聞き取るなど、やった人にしか体験できない魅力的な要素もあるのです。

 ゲームを作る側の視点に立てば、そうした魅力的な要素というのはプレイヤーに体験してほしい要素に他なりません。あるいは不出来な要素も、意図としては「楽しんでもらえると思っていた」仕様だったのかも知れません。ただこうした魅力や意図が壊滅的なユーザーエクスペリエンスを最終的にプラスに持って行ってくれるかと言われると疑問が残ります。だってせっかく魅力的な要素があるのに、プレイヤーの何割か、あるいは大半はストレスフルな要素によってふるいにかけられ、楽しむことなく去っていってしまうわけですからね。あとに残るのは痛みに耐えて最後まで頑張ろうとする人たちと痛みが好きな人だけです。けどそれも途中で挫折してしまうかもしれないし、最後まで頑張ったけど「総合的にはストレスの方が多かった」という評価になってもなんら不思議ではありません。こうして選ばれし者だけが「最後までやった甲斐があった」「いい痛みだった」という評価をくれるわけですが、そんな「たけしの挑戦状1」みたいなゲームをあえて作ろうとすることは普通はないですよね。普通は。

あなたはクソゲーを作りたいか

 では最初の疑問に立ち返ってみましょう。あなたはゲームを作るなら、どんなゲームにしたいでしょうか。魅力的なキャラクター、壮大な構想の世界観……これをゲームをプレイした人みんなに楽しんでもらいたい、没入感のある体験をしてほしい、と思ったら重要視するべきは何でしょうか。快適なゲーム性なんじゃないかとわたくしは思います。

 もちろん、そりゃ言うは易しという話でしょうけど、ゲーム作りをしてる人は誰しも「どうやったらストレスなくゲームを楽しんでもらえるか」を考えるはずだし、結局のところキャラクターや世界観はゲーム全体から見ればそれを盛り上げるエッセンスでしかないわけです。例えば世界観100点、ゲーム性10点のゲームAと世界観10点、ゲーム性100点のゲームBだったら「ゲームとして」プレイしたいのはどっちでしょうか。まあ、Bですよね。逆にこれら2つのゲームをノベライズしたとき、読みたいのはどっちかと言われればAの内容でしょうが……

 さて、ここでゲームAがもう少し色々な人にこのゲームの内容を体験してほしい、感動を味わってほしい、と思ったらやるべきことは何でしょうか。そう、10点のゲーム性を30点にでも上げればそれで十分ではないでしょうか。50点くらいまで行けばもう立派に「ゲーム自体はよくあるシステムだけどシナリオは最高だ」という評価を得られるでしょう。しかし、ここでゲーム性を10点のまま世界観を150点、200点にしたところでユーザーの体験はほとんど向上しないでしょう。そうしたら言われるのは「ゲームじゃなくて小説で出せよ」あたりです。まあ実際、昔のゲームで映画やアニメ原作のキャラゲーに名作なし、と言われてますけど、それが全てを物語っています。題材が良くてもゲームが面白くないと何も伝わらないのです。

終わりに

 実は「星をみるひと」は2020年にSwitch版が出ており、こちらはクイックセーブや移動速度アップ、巻き戻し、ニューゲーム時にレベルとお金を任意の値に設定できる、など遊びやすい機能が追加されています。これらの機能が追加されることになったのがどういうことを意味するかは上記の通りです。もしこのゲームがフルグラフィックチェンジ、フルボイスでリメイクされたとして、上に挙げたような数々の仕様を完全再現したとてもまともに遊べないゲームだったらどうなるでしょうね。きっとクソゲーハンターは喜んでくれると思います。しかし、現実は「快適機能の追加」が「答え」だったわけですね。まあ、わたくしはゲーム作る人ではないんですけど……色々考えちゃうよなぁ、というお話でした。

  1. これもファミコンのゲームで不可解な仕様が多数あるゲームですが、これは明確に意図した理不尽仕様が多数含まれています。つまり最初からそういうゲームデザインという非常に稀な例です。 ↩︎
カテゴリー: VRC

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