「たまなつちゃん、一緒に釣りに行かない?」
たまなつはある日、ラスクからの電話に出ると開口一番そう尋ねられた。
「釣り? 行ったことないけど、楽しそうだね。何を釣るの?」
たまなつがそう尋ねると、ラスクは
「さあね、海にいる何かさ。まあ、釣れればラッキーってことで」
と答えた。
当日、たまなつの家にラスクが訪ねてきた。ラスクはたまなつ同様猫の耳と尻尾を持つ少女で、髪は短く、少しくすんだ水色をしている。黒っぽいパーカーに、下は黒いニーソとスニーカー、とカジュアルな装いだ。彼女はクーラーボックスと道具箱、釣り竿をキャリーカートに括り付けて徒歩でやってきた。時刻は既に夕方近かった。
「私も君も家が歩いて海まで行けるところにあってよかったよね」
目的の砂浜まで歩きながらラスクは言った。海はまだ少し遠くに見えている。到着するころには、恐らく日が沈み始める時間だ。道路は人も車も少なく、市街地の真ん中の緩やかな坂道を降りていけば、やがて海に着く。
「うん。今から何が釣れるかわくわくしてるよ」
たまなつがそう言うと、ラスクは
「ハハ、あんまり楽しみにされてると胸が痛むなぁ。釣れないときは全然釣れないからね」
と少し困ったような顔して言った。するとたまなつは
「釣れなくてもがっかりしないよ」
と答えた。ラスクはそれを聞いて少しほっとしたようだった。
「でも釣りって、どうやってやるの? たしか竿にエサがついたヒモをくっつけて海に投げるんだよね」
たまなつがそう尋ねると、
「ああ、そうだよ。実際にはまあ、見ればわかるけど……もう少し複雑な仕掛けがあるんだ。けど心配しなくていいよ。全部私がセットするから、たまなつちゃんは見てるだけで大丈夫。もちろん、やってみたかったら教えてあげるけど……釣り糸をセットしたり、重りをつけたり、あと、ミミズみたいなやつを針に刺すんだけど、やってみたいかい?」
ラスクが逆にそう尋ねると、たまなつはかなり露骨に嫌そうな顔して
「えー」
と言った。
「アハハ、君ってわかりやすいなぁ。けど、嬉しいよ」
ラスクがそう言うとたまなつは首を傾げ、
「嬉しいの?」
と尋ねた。するとラスクはえへへ、と少し照れくさそうに笑うばかりだった。
やがて砂浜に着いた二人は釣りに適したポイントを探し始めた。たまなつは寄せては返す穏やかな波の音を聞きながら、ラスクがどうやって場所を選んでいるか観察していたが、全然わからなかったので素直に一言、
「どういうとこがいいポジションなの?」
と尋ねた。するとラスクは足を止めて振り返り、
「うーん、そうだな、私一人じゃわかんないかも。君のこと肩車してもいい? 探すの手伝ってほしいんだよね」
と言った。たまなつは、
「私がラスクちゃんを肩車した方がいいんじゃない?」
と言ったがラスクはというと、わかってないな、とばかりに指を振り
「君の直感を当てにしたいのさ」
と言ってそっとしゃがんだ。しかしたまなつはラスクの正面に立って背中に足をかけようとし、
「待ってくれ、いくらなんでもそりゃ無理だよ。立ち上がれたとしても私は君の股間しか見えないじゃないか。逆だよ逆」
そう言われたまなつは恥ずかしそうにそそくさとラスクの背中側に回り、うなじをまたいだ。
「よーし、上がるよー」
ラスクはゆっくり立ち上がり、たまなつの太ももに手をかけた。たまなつはラスクの頭をぐっと掴んだが、
「ああー、痛いねぇ。君、本当に猫なのかい? 私の耳がさ、もげちゃうって」
と言われ
「あ、ごめんね……」
と、そっと側頭部に手を添えるだけにした。そしてようやくラスクは完全に立ち上がった。
「ふふ、楽しいね。くれぐれもバランスを崩さないでね」
ラスクはそう言って楽しそうにしていたが、乗っているたまなつの方は同じくらいの背格好のラスクに肩車されるのが内心少し不安だった。
「ラスクちゃん、大丈夫? わ、私、どこを見ればいいの?」
たまなつがそう尋ねるとラスクは
「えーとね、海の方を見てほしい。そっちを向くね……よしよし、あんまり沖の方は見なくていいけど、横方向には遠くまでよく見てね。波がさ、来てるでしょ。どこか浅瀬の方にこう、何もないはずなのに何かにぶつかったみたいに波が立ち上がるポイントはない?」
と尋ねた。たまなつは目を凝らしてよーく辺りを見渡した。
「うーーーーん……あ!! あっちにそんなとこがあるかも」
そう指差した方向に、ラスクはゆっくりと歩いていく。
「もう降りていいんじゃない?」
たまなつが言うと、ラスクは
「もうちょっとこれで行こうよ。よく見えるでしょ」
と妙に楽しそうに言うのだった。
やがて二人は、たまなつが発見したポイントに辿り着いた。
「よーし、ここにしよう。大丈夫、君に責任を負わせることはないからさ。ここで釣れなかったらどこで釣ってもおんなじだよ」
ラスクはそう言うといそいそと釣りに必要な道具をセッティングし始めた。しっかり二人分の折り畳み椅子も持ってきていた。
「何か手伝うことある?」
たまなつがそう尋ねるとラスクは、
「いやー、君がそこで目を輝かせてくれてるだけで十分励みになるよ」
とニコニコしながら返した。たまなつは、きっと自分が触ると何か壊してしまうかも知れないから触らせないようにしたのかな、と思い少し申し訳なさそうな表情をしたが、やがてラスクが釣りの餌になるゴカイを針に取りつけようとしたとき、
「あ、たまなつちゃん、これならやってみてもいいよ」
と言い、たまなつは
「うぇ~~~~」
と露骨に嫌な顔をすることで丁重に断ったため、結局全部ラスクが準備を済ませた。
「さーて、いよいよ楽しい釣りの始まりだぞ。そーれっ!」
ラスクが振った竿のリールかほとんど音もなく回り、伸びていく釣り糸の先の仕掛けが、きらきらと夕日を格納しつつある水面に落ちていく。
「もう一本はたまなつちゃんが振っていいよ」
竿は二本あった。
「どうやったら遠くに飛ぶかなぁ」
たまなつがそう言うとラスクは
「刀を振り抜くような勢いで……やると、君は竿を折っちゃうだろうから、そうだなぁ、頭の上でピザを一回転させるくらいの勢いでいいよ」
とよくわからない指示を出したが、たまなつはまあまあ何かを理解したらしく、仕掛けはそれなりによい軌道を描いて飛んで行った。スタンドに竿をセットし、二人は椅子に座ってゆっくりと沈んでいく夕日を黙って眺めていた。
「夜が来るね」
ラスクが言った。
「魚は、夜寝ないのかな」
とたまなつが言うと、ラスクは少し微笑みながら
「寝るやつもいるけど、起きてるやつもいるんだよ。私たちと一緒だね」
と言った。
「ラスクちゃんは、どうして私を釣りに誘ったの?」
たまなつがそう尋ねると、
「お、いい質問だね。君は魚が好きだから、喜んで来てくれると思ったのと……ほら、待ってる間一人だとつまんないでしょ」
とラスクは話したが、その視線はたまなつではなく、先ほど夕日が沈んでいった水平線の向こう側を眺めていた。たまなつはそれ以上は聞かないことにした。それからしばらくしてラスクは自分が投げた方の竿のリールを巻いて少し糸をたぐり寄せた。
「引いてたの?」
たまなつが尋ねると、ラスクは作業を続けながら
「引いてないときでもね、本当はこうやって少しずつ動かしてやった方がいいんだ。まあ、めんどくさいから途中でやめると思うけど……最初くらいはね。君もそっちの竿のリールを少し回してみるといいよ」
そう言われてたまなつも少しリールを回した。その後二人で少しずつ糸をたぐり寄せ、引き揚げてみたが、エサもそのままだったのでもう一度投げ、再びスタンドにセットした。
「ま、こんなもんだよ。まだまだ夜は長いからね」
ラスクはそう言って椅子に座ると随分リラックスした様子だった。それが、海を見ているたまなつの顔をまじまじと見つめて一言、
「これだけでも来た甲斐があったよ」
と言った。たまなつは何のことだかよくわからなかったので
「なにかあった?」
と尋ねた。するとラスクは笑顔で
「ハハ、君の目に星空が映ったら、さぞ綺麗だろうなと思ってたんだ。本当にその通りだった」
と言った。たまなつはなんとなく照れて
「えへへ」
と笑った。その姿を見てラスクはより一層満足そうに微笑んだ。
「ずっと海と星空を眺めてるのも、案外飽きないね」
たまなつがそう言うとラスクは、
「そうかい? 君はもっと退屈するかと思ってた。おにぎりも持ってきたし、お茶もあるし、最悪読み聞かせまでするつもりで本も用意して来たんだけど、要らない心配だったね。ま、スマホ見てれば時間なんていくらでも過ぎていくけどさ……あ、でもおにぎりは食べたそうだね。食べようか」
と、荷物の中からおにぎりを出してくれた。それを頬張りながら
「おいしいね。私が鮭好きなの覚えてたんだ。ありがとね、何から何まで……」
とたまなつが言うと
「あれ、君は焼いたサバの方が好きだと思ってたよ。アハハ、それは冗談だけどね。いいんだ。私今、すごく楽しいよ」
とラスクは満足そうにしていた。だがそれに反して、たまなつは少しうかない表情をしていた。別にラスクに色々してもらって申し訳なくなったからではなく、一つ気にしていることがあるからだ。それはラスクが捜している一人の友人のことだった。ラスクはエレベーターが異界に繋がる奇妙なマンションにわざわざ住んでいる。だがそれは、かつてそのマンションに住んでいて行方不明になった友人を捜すためであり、今も手掛かりは見つかっていない。本当は今でもとても心配しているだろうに、こうして気を紛らわそうとしているのだろうか、とたまなつは思っていた。
「おっと、本当にサバの方が好きだったかな。なーんて……ダメだなぁ、私、君を心配させてるようじゃさ。本当に今日は君に楽しんでもらいたくて来たんだよ。けどまあ、夜は長いからね。少しくらい話してもいいか。聞きたい? あの子のこと」
ラスクはすっかり観念したようにそう尋ねた。たまなつは、うん、と静かにうなずいた。
「あの子はね、君や私と同じ猫の女の子なんだ。そのくらいは前にも話したよね。最初に知り合ったのはバイト先でさ……まあ、それはいいか。とにかくあの子、探検が大好きでね、将来の夢はトレジャーハンターだって。私からしたらもう十分夢をかなえてると思えるくらい色んなものを持ってるんだけど……バイトしながら色んな遺跡とか、廃墟とか、何かありそうなところにはどこにでも行ってた。ホラースポットにも行ってたよ。私も面白そうだと思ってついて行ったことがあるけど、ロクな目に遭わなかったね。ハハ」
とラスクは語り始めた。
「で、最後に辿り着いたのがあのマンションだったってわけ。あの子にとっては夢のような場所だったろうね。あんな不気味で薄暗い部屋の中で、目を輝かせてた。エレベーターのボタンの組み合わせ次第でどんな場所にでも繋がる。ここに住んでるだけで無限の冒険ができるってね。私はそうは言っても……いずれ飽きると思ってた。あの子のことだから、もっと大自然に目を向けたいとか、大陸の方にも行ってみたいとか、言うだろうなって。だから……止めなかった。なんとなく嫌な予感がしてたんだけどね……あの子さ、『うっかり私が帰って来なかったら、ここの物は部屋ごと自由に使っていいから』なんて言うんだもん。冗談じゃないよって言ってやったけど、嫌な予感って当たるもんなんだよね。ある日、本当になんにもないある日、急に連絡がつかなくなった。エレベーターでどのボタンを押したのかも、何の手がかりもなかった。残ったのは……あの子が部屋に貯め込んだ大量の”遺品”だけ……君も見たろ? あの部屋にあるもののほとんどは、マンションで安全を確保するための魔除け厄除け、効果があるのかないのかもわからないようなおまじないの数々なんだ。スクラントン現実錨みたいに、場合によってはないと致命的な道具を選別するのは本当に大変だったよ。ハハ……うん。わかってるんだ。もう、捜しても無駄だってことはさ。もはやあの子が暮らしてた時間より、私がマンションで暮らすようになってからの方が長くなっちゃったからね。皮肉にもほどがあるよ……」
ラスクはそう言うと、星空を見つめてふぅーっと深いため息をついた。
「でもラスクちゃん、まだ続けてるんでしょ、探索……このまま続けてたら、今度はラスクちゃんも……」
たまなつはそのことばかりが気がかりだった。
「そうだね。このまま続けていたら、多分私は帰って来なくなると思う。そもそも君に会わなかったら……きっともう既に私は……でも心配しないで。私は臆病だからさ。そろそろ、あの部屋を引き払おうと思ってるんだ。この頃、エレベーターの調子が悪くてね。階段は一度に一階層分しか降りられないし……潮時ってやつさ。でも新居を探すのは大変だからねぇ。亜京市は今より家賃が高いし……ま、その時はその時ってことで」
ラスクはそう話すと再び竿の様子を見に行った。たまなつはただ、静かにリールを回すラスクの背中をじっと見つめていた。やがてラスクが仕掛けを引き揚げたが、
「あーあ、見てよこれ。餌だけ取られちゃった。魚ならまだいいけど、ヒトデとかの仕業だと悲惨だね。君の方の竿も……ハハ、なんて顔してるのさ。釣れなくてもガッカリしないんでしょ」
ラスクは少し困ったような顔をして笑いかけたが、たまなつは涙目になっていた。
「やっぱり、釣れないと悔しいね」
たまなつはそう言って袖で涙をぬぐった。
「本当に、今日は君を誘ってよかったよ」
ラスクはそう言うと、荷物からポケットティッシュを取り出してたまなつに手渡した。
「君にハンカチを渡すと普通に鼻かむからね」
たまなつはそう言われ、少しムッとしたような気持ちもあり、しかしなんとなく可笑しくて笑ってしまい、複雑な表情を浮かべるのだった。
それからしばらく二人は星空を見上げながら、あるいは波の音に耳を傾けながらじっと魚がかかるのを待っていたが、これといった変化がないまま時間が過ぎていった。
「私は平気だけど、たまなつちゃんはそろそろ眠くなってくるころじゃない?」
ラスクはそう言ってたまなつの顔を見たが、予想に反してたまなつの目はらんらんとしていた。
「私、本当は夜行性なんだと思う」
とたまなつが言うと、ラスクは
「ああ、忘れてたよ。君も私も猫だもんね」
と少し呆れたように言った。そうは言うが、二人とも普段は夜になったらぐっすり寝ているのだ。そして、星空を眺めていたたまなつが急に声を上げた。
「あ、流れ星!」
そして、ねえ、ラスクちゃん、と話しかけようとしたとき、ラスクは既に願い事をしていた。
「あー、ずるい!」
たまなつは言ったが、別に何もずるいことはない。
「ふふ、たまなつちゃん甘いね。流れ星はたった一つの願い事を乗せて、海に落ちていくんだよ。つまり、早い者勝ちなのさ」
ラスクはウィンクしながらいたずらっぽく言った。たまなつもこれにはさすがにやれやれといった態度を取り、
「何をお願いしたの?」
と尋ねた。しかし、
「さあねー、それは秘密だよ」
とはぐらかされた。
「さて、そろそろ仕掛けを動かさなくちゃ」
とラスクは自分の竿のリールを回し始めたが、そのとき、たまなつの方の竿の先端に動きがあるのが見えた。
「あ、引いてるよ!」
たまなつが叫ぶと、ラスクは大慌てで
「おお、ついに!」
とそちらの竿のリールを回して慎重に仕掛けを引き揚げた。暗い中、ライトで照らす必要はなかった。そこには一匹、金色に光り輝く小さな魚がかかっていた。
「えぇー!! ラ、ラスクちゃん、これは何!?」
たまなつが大声で尋ねると、その魚を眺めながらラスクが唖然としていることに気が付いた。
「ラスクちゃん?」
そう声をかけると、
「まさか、こんなことって……」
とラスクがつぶやいた。そしてたまなつは、竿を持っていない方の手でラスクが涙をぬぐったように見えた。
「信じられないよ。……あの子が言ってたんだ。いつか金色の魚が釣れたら、宝探しをやめて自伝を書くんだって……」
たまなつはそれを聞いて、ラスクになんて声をかけていいかわからなかった。ただ、一つだけ
「ラスクちゃん、その魚、持って帰る?」
と尋ねた。するとラスクは逆に、
「……たまなつちゃんはこの魚、欲しい?」
と尋ねてきた。たまなつは静かに横に首を振った。するとラスクはほっとしたように、
「ありがとう。じゃあ、この魚は……海に逃がすよ。こいつを釣るべきなのは、私達じゃないからさ」
と言い、針を外して金色の魚を海に投げ返した。二人はただ言葉もなく、しばらく夜の凪いだ海を眺めていた。
「私はすごく楽しかったけど、疲れたかい?」
ラスクがたまなつに尋ねるとたまなつは
「全然! でも帰ったら寝るよ」
と答えた。あれから、不思議と急に魚がかかるようになり、クーラーボックスには持って帰って調理するには十分すぎる数の魚が詰まっている。二人は満足しながら帰路についた。すでに日が昇り、いつもなら朝ご飯を食べているくらいの時間になっていた。最後に、たまなつの家でラスクが魚のほとんどをたまなつに譲ってまたマンションに帰って行こうとしたとき、たまなつは名残惜しく、少し伏し目がちにラスクの顔を見ていた。
「まだ心配してくれてるのかい? 大丈夫、今日から引っ越しの準備を始めるよ。君とまたこうして釣りに行きたいからさ……じゃ、また」
そう言ってラスクは帰って行った。その背中をたまなつはじっと見つめていた。ラスクは曲がり角で見えなくなるまで、何回か振り返ってたまなつに手を振ってくれた。
たまなつはその日、10分おきくらいにラスクにスマホのチャットで連絡をし、とうとう夜になるまで寝ることもなく、結局自分が寝落ちするまでやり取りを続けていた。
「面白い子だよね。はぁ……いつか君にも会わせたいよ」
ラスクはマンションの部屋の中で一人、机を整理しているときに見つけた、友人の写った写真に語りかけ、そっと布団をかぶり眠りに就くのだった。