「Nuj計画」 第8幕

 「ただいま!!」
真夏は赤森のいる部屋に帰ってきた。赤森はテレビの前で座ったままうとうとしていたが、真夏のデカい声にハッとして目が覚めた。
 「おかえり……っていうか、遅かったわね。心配したんだから……」
赤森は目をこすりながら、本当はその後に「大人を心配させてはいけない」と彼女をたしなめようと思っていたのだが、
 「えー、寝てたんじゃん!」
と真夏に言われて何も言い返せなくなった。
 「でも、遅くなったのには理由があってね……もんちゃんと会って来たんだ」
赤森はそれを聞いて、やられた、といった表情をしたがなんとか持ち直し、
 「はぁ……まあ夜中に抜け出して行かれるよりはいいか。ちょっとその話はじっくりしたいから少し待ってて。あ、その間にお風呂の水入れておいてちょうだい」
と言って部屋から出て行った。赤森はまだロッカーに自分の荷物を取りに行っていなかったので、真夏にどこまで話してもいいものか頭の中でよく考えながら荷物を取って部屋に戻ってきた。戻ってくると真夏は寝っ転がってテレビを見ながらスマホをいじっていたが、おもむろに低い机の傍らに居直した。
 「で、深木くんから何か聞いたの?」
赤森は先に真夏に尋ね、向かい側に座った。
 「全部だよ。珠子ともんちゃんのホントのエピソードも、今日の脳波検査中に発作が起きたことも、その後名治子から変な計画について聞かされたってことも全部」
真夏は端的に答えた。赤森は面食らったが、
 「そう……じゃあ、それが全てよ。私から話すことはもうないと思う」
と、むしろ手間が省けたような言い方をした。しかしそれが災いし、
 「ってことは、全部知ってたってことだね。最初もんちゃんをINCTに呼んだのは珠子だって聞かされてたけど、名治子の計画のことも全部知ってるってことはホントは名治子が呼ぶために珠子に連絡させたってとこじゃない? 違う?」
と、真夏にあっさり看破され赤森は弁明の余地を失った。
 「あー、もう! カンがいいっていうか……頼むから先生には私からは何も教えてないって言ってよね。実際何も教えてないもん……まあ、正解なんだけどね」
真夏はそう言われて少し考えこんだ。名治子に赤森のことをどう言うかを考えていたわけではない。名治子が深木に目をつけた理由を考えていた。
 「まだよくわかんないんだけどさ……名治子、何か悪いことしてない? 私、名治子のことが心配でここに来たんだ。あの幻術マシーン……VRっていうんだっけ。あれについて深く研究し始めてから、名治子と電話したり、LINEでやりとりしてて、なんかヘンだなって思って……何がって言われるとアレなんだけど、何か研究を急いでるっていうかさ。そんな感じ、しない?」
真夏がそう話すと、赤森も少し考えこんで
 「うーん、それは……確かに、研究を急いでる感じはするかも。ほら、あなたにも前にほんの少しだけ話したでしょ。私の不思議な体験談……の一部。あなたは信じてくれたけど、先生は最初私のことを病気だと思ってたのよ。それが、あのVR体験会が終わってから色々興味を持ってくれて……深木くんのことも、そのときに改めて話したんだけど……研究の参考になるかもって」
と答えた。
 「彼を”被験者”に選んだってこと?」
真夏は少しトーンを落として尋ねた。
 「いや……あくまでも普通に検査をして、治験のお礼をして帰すつもりだったわ。彼の健康状態を調べるついでに、とても貴重なデータが手に入るのは間違いないから……それだけでも大きなメリットなのよ。この会社にとってはね」
赤森がそう言うと、真夏は急に興味を失ったように、
 「ふーん、そうなんだ。オッケー、じゃ私お風呂入ってくるね」
と、さっさと風呂に向かっていった。
 「え、うん……お湯、捨てないでね」
赤森は真夏が急激に話に飽きたように見えたので、半分困惑し、半分ホッとしていた。ほとんどのことは既にバレているようなものだが、かといってこれ以上尋問をされても困る。

 その後は2人はそれ以上込み入った話はせず、たわいのない雑談を楽しんでいた。やがて夜も更けると、真夏は急に強い眠気に襲われ、歯を磨くところまでは辛うじて意識を保っていたがその後はいよいよ畳の上でうつらうつらし始めたので赤森は彼女の分も布団を敷いてあげた。
 「今日は疲れたでしょ。私も寝るから、おやすみ」
赤森は自分の分も布団を敷いて、そう言って部屋の電気を消した。そのときには真夏はもう布団に入って爆睡していた。

 「あれ? ここは……あ、猫!」
真夏は一人、森の中に立っていた。しかし、すぐに彼女の足元に1匹の小柄な黒猫がいることに気がついた。真夏の足にすり寄ってきたその黒猫は、真夏が気づくとどこかへ歩き始めた。少し歩いては振り返り、彼女をどこかに誘っているようだった。
 「今日も連れてってくれるんだね。今行くよ」
真夏は黒猫について歩いて行った。見慣れた光景だ。何度も通った道。朝のような夕方のような、おぼろげな時。暖かな木漏れ日の下、1人の少女と1匹の猫が往く。やがて、煉瓦造りの立派な洋館の門が見えてきた。門は真夏が近づくと当たり前のように開き、彼女を通すとひとりでに閉まった。嗚呼、これなるは遥かな幻夢郷、そのどことも知らぬ一角にひっそりと構えられた、神に愛されし猫たちの棲む小さな聖域である。洋館に入ると、黒猫は壁沿いに階段を上がっていく。真夏もそれについて階段を上がっていった。何の疑問も抱かず、ただ穏やかな気持ちだけ持ち寄って。そして、黒猫が立ち止まった応接間の扉をそっと押し、黒猫を先に入れると真夏も入っていった。真夏はここに来るときだけは静かで、自分でも気づかないうちに軽く一礼しながら、そっと扉を閉めた。
 「ようこそ、我が小さな信徒。さあ、どうぞこちらへ」
鈴を転がすような美しい声でそう呼びかけてきたのは、猫の頭を持ち金色の衣に身をやつした高貴なる旧神、バーストであった。大きな窓の傍らに立ち静かに佇む彼女の下へ、真夏はまた軽く一礼し、そっと歩み寄った。
 「猫の神様、お久しぶりですね」
真夏はその実態を知らずしてなお無意識に、あるいは本能によって、バーストを心から信奉しているといっていいほどの敬虔な”信徒”であったが、口調は割と相変わらずだった。
 「ええ。貴女がそのブレスレットを肌身離さず身に着けているおかげで、こうしてお招きすることができました」
バーストは真夏の右手首のブレスレットを見ながらそう言った。それは、間接的にバーストから贈られた神聖な代物であった。
 「はい……けどなんだか、いつもとちょっと違う感じがする……?」
真夏はふと、いつも来ている時よりも体が軽いというか、五感がわずかに希釈されたような微妙な違和感を感じた。
 「いつもは貴女が迷い込んでくるところですが、今日は私がお招きしたのです。貴女が眠りに就いたところを……つまり、貴女は今夢の中から此方へ来ているのです。本来であれば長い長い道のりを経る必要があるのですが、私との縁もありますので……そうですね、いわゆる「ショートカット」というものです」
バーストは静かにそう話した。
 「はゎ……それはそれは、なんたる……栄華?」
真夏は恐縮していたが、語彙力が足りていなかった。
 「言うなれば、栄誉、といったところでしょう。それほど畏まらずとも、いつも通り楽にして結構ですよ。さあ、こちらへどうぞ」
バーストは静かに、部屋の真ん中の小さなテーブルに彼女を招いた。バーストが奥の席に腰かけると、真夏はここに来てからいつの間にか着ていた、フリルのたくさんついた可愛らしいドレスの両側を雑に掴んで膝を曲げ、カーテシーの真似事をしてからそっと席についた。テーブルにはお茶会の用意がしてあった。並んでいるのはいずれも、普段であればまず見ることも叶わない、銀でできた器だった。
 「ハーブティーはお好きで?」
バーストはカップに静かにハーブティーを注ぎながら尋ねてきた。
 「嗜む程度には」
真夏は澄ましてそう答えた。
 「それはよかったです。どうぞ」
真夏は銀器に注がれた美しい黄金色のハーブティーを差し出され、また軽く一礼した。バーストは微妙に会話がかみ合っていない気がしていたが、真夏はそれが主に酒について聞かれた時に返す言葉だとは気づいていない。真夏はほどよく気持ちを落ち着かせるハーブの香りにうっとりしていた。
 「猫が好む香りのハーブティーです。お気に召しましたか?」
そう言って自分が注いだハーブティーにバーストが口をつけたのを見てから真夏も一口すすった。真夏はハーブの味のことはよくわからないが、不思議と良い気分になった。
 「とってもステキ。けど神様、私のこと猫の一種だと思ってません?」
真夏はふと疑問に思って尋ねた。彼女はキャットニップというハーブを知らなかったので、マタタビ茶でも淹れられたのかと思っていた。
 「まあ、概ねそのように……ふふ。けれど、我が信徒にとってみればそれもまた……おわかりですね?」
バーストにそう言われ、真夏は少し照れながら
 「栄誉、ですね」
と答えた。バーストも笑みを浮かべ
 「左様です。人間の信徒のことは私にはあずかり知らぬことでもありますが……」
バーストがそう言ったとき、真夏は横目にチラチラと、小さな銀の棚に並んだ一口大のカップケーキを見ていた。バーストが手で「どうぞ」と促したので遠慮なくイチゴのついたケーキをつまんで口に放り込もうとしたが、その前に
 「そういえば、神様は何故私をお招きに?」
と尋ね、それから口に放り込んだ。
 「猫とは気まぐれなもので、神もまた気まぐれです。では、猫の神とあらばさて、どうでしょうか」
バーストは穏やかな口調でそう言った。
 「ものすっごく気まぐれってことですか?」
真夏はそれ以外なかろう、という確信をもってそう尋ねた。
 「ご明察です。が、しかし……いかに気まぐれと言えど、何のきっかけもないわけではありません。この度は、貴女が自らドリームランドに近い位相に意識を移したのがたまたま視えたので、少し様子を見守っていたのです。すると、少しばかりおぞましいものの片鱗を感じ、心配になりまして」
バーストは静かに語った。真夏は少しの間何を言われたかよくわからず、ちょっと間の抜けた顔をしていたがやがて何を言われたのかを理解した。その上で、
 「あ、もしかして、仮想世界のことですか……? おぞましいものっていうのは……まさか、もんちゃん……?」
と、真夏はめいっぱい考えながら言った。
 「恐らく、その認識で相違ないでしょう。貴女がその仮想空間に移動したことでチャンネルが開き、貴女の目を通じて状況が理解できました。本来であれば人間の世界のことには特に関心もありませんが、小さくも敬虔な我が信徒の危機とあらば祝福の一つも授けようというのが私のきまぐれ、というわけです」
バーストはじっと真夏の目を見つめながらそう話した。真夏は少し困惑して
 「大変それもまた、めっちゃめちゃ栄誉すぎてびっくりなんですけど、私、祝福をいただくほどのなんか、すごいことしようとはしてないんですけど……」
と、恐縮しながら言うと、バーストは、
 「いいえ、貴女はこれからも必ずや、己の信念に従い行動することでしょう。しかし信念に殉ずるには、まだ若すぎる。人間の世界には、”Curiosity killed the cat”……すなわち、「好奇心は猫をも殺す」ということわざがあるそうですが、私は今回に限ってはそれが気に食わない、というだけのことです」
と、優しく諭すように言った。
 「にゃーん」
真夏の足元に、彼女を連れてきた黒猫がすり寄ってきた。
 「彼女も貴女を心配しているようですよ。さあ、ほんの短い間でしたが……そろそろあちらで貴女の目が醒めます。その前に、一度こちらへ」
バーストがそう言って席を立ったので、真夏も席を立ち、バーストの目の前に歩み寄った。
 「右手を出してください」
と、バーストに言われるがまま真夏は右の手のひらを上にして差し出した。すると、バーストは両手で彼女の右手を手首からそっと包み込むように掴んだ。するとその両手から暖かな光が発せられた。
 「わあ、なんだか陽を浴びたみたい」
真夏は日向ぼっこする猫と一緒に過ごしている時の暖かさを思い出していた。
 「祝福などと言っても、実際にはそのブレスレットにほんの少し私の魔力を込めたに過ぎません。一度しか使えませんが、役には立つでしょう」
バーストはそう言うとそっと手を離した。
 「ありがとうございます。私、魔法とかはわかんないけど……大事にしますね」
真夏はそう言って今日一番深く頭を下げた。
 「猫の気持ちを忘れなければ、すべてうまくいくでしょう。それではごきげんよう」
バーストはそう言うと、どこからともなく取り出したフルートのような横笛を静かに吹き始めた。その不思議な音色が耳に入ってくるのと同時に真夏は意識が混濁し、気がつくと殺風景な和室の布団の中に横たわっていた。
 「ハッ……夢か……夢?」
真夏は今しがた体験したことが、本当にあったことなのか、よくできた夢だったのかにわかにはわからなかったが、ひとまず上体を起こし、猫のようにめいっぱい伸びをするのだった。

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