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「Nuj計画」 第7幕

 深木のことについてはちょっと大きな声では、と赤森が言うので、真夏は急いで食事を終えて空いている部屋を2人で探すことにした。
 「来客用の部屋ならいくらでも空いてるのよね。来客ないから」
赤森は真夏と廊下を歩きながら言った。
 「そもそも秘密結社なのになんでそんなに来客用の部屋があるの?」
 「お客は来ないけど”被検者”は来るからね……今はほとんどいないけど」
 「何それこわい……夜一人でトイレ行けなくなるじゃん」
 「じゃあ部屋の入り口にトイレとお風呂がある部屋にしましょう」
2人はそんな話をしながら3階にある来客用の和室の入り口をカードキーで開けて入っていった。
 「わー、なんだろう、温泉行くとこういう部屋泊まるよね」
真夏は部屋を眺めながら言った。入り口には衣装掛けと風呂、トイレの扉、奥には和室が広がっている。和室にはテーブルの上にポット、壁際にテレビが置いてある。
 「あー、そうね。浴衣とか広縁はないけど」
赤森は靴を脱いで和室に上がっていった。
 「ヒロエン? 何それ」
真夏も一緒に上がっていく。
 「ほら、よく窓側にあるでしょ、さっき食堂にいたときみたいに向かい合って座る席だけ置いてある謎のスペース……」
赤森は向こうの壁を指さして言った。この部屋ではそこには窓しかない。
 「あー、あれヒロエンって言うんだね。おじさんに教えてあげよ」
そう言って真夏は一通り殺風景な和室を見回した後、風呂の方を覗きに行って急に何かを思い出して叫んだ。
 「あ!!! そういえば着替えがないとお風呂入れないじゃん」
真夏はポーチしか荷物を持ってきていなかった。
 「被験者に着せる患者衣だったら備え付けてあるけど」
赤森は布団が入っている押入れを開けながら言った。
 「ヒィー……まあ、寝るときはそれ着ればいいけど……あ、そうだ思い出した。私、1階のロッカーに着替え入れてあるんだった」
真夏は左の手のひらを、右手をグーにしてポンッと叩きながらそう言った。赤森は唖然として
 「え? 職員用のロッカー1つ占有してるってこと? なんで??」
と尋ねた。
 「名治子がロッカー使わないからって譲ってくれたんだよね。私、1年に何回かは遊びに来るから、いざって時のために着替えとか入れてあるんだ。取ってくるねー」
と真夏は言い終わるか終わらないかくらいのタイミングでもう部屋から飛び出ていた。
 「あ、ちょっとー!!! もうー、大丈夫かなぁ……」
赤森は「気が気ではない」と言っていた奈治男の気持ちが少しわかった気がした。自分もロッカーに取りに行きたい物があることを思い出したが、ひとまずテレビをつけて休むことにした。

 施設は元々静かだったが、徐々に職員も帰っていき、じきに夜勤の職員と、不幸にも残業をせざるを得ずオフィスにこもっている者以外はほとんど人がいない状態になりつつあった。真夏は消灯が近い廊下を闊歩し、1階のロッカールームに辿り着くと、カードキーを使ってそこから服とお泊まりグッズが詰まった布巾着を取り出した。
 「さ、帰ってお風呂入ろうっと」
真夏はそう呟いてまた廊下を歩き始めた。すると途中、退勤する事務の女性とすれ違った。
 「あれ、子ども? どうしたの? こんな時間に」
その女性は真夏に話しかけてきた。
 「職員さんお疲れ様! 私、今日はここに泊まるんだ」
 「泊まるって……あ、もしかして……」
女性は真夏を残業組が非公式な”実験”に使うために用意した被験者かも知れないと推測した。それで気の毒に思い、
 「あなた、もしここの職員に連れて来られたのなら、酷いことされる前に隠れた方がいいわ。たしか今……3階の東棟の奥に主任から人を入れないように言われてる個室があるから……そこなら夜勤の見回りのときだけ見つからないようにすれば朝まで隠れられるはずよ」
と教えてくれた。真夏はなんのことかさっぱりだったが、面白そうなので話を合わせることにした。
 「そうなの? うぅ、今ね、なんか様子が変だなーと思ったからあっちから逃げてきたところなの。酷いことされるところだったんだ……私は仁勢田真夏。ありがとねお姉さん。名前は?」
真夏が急に尋ねると
 「え、稲見だけど」
とだけ答えた。
 「稲見さんね。ありがとう、行ってみるね!」
真夏はぺこりと頭を下げてダッシュで3階に向かっていった。
 「き、気をつけてねー!」
稲見はあっという間に遠くへ走っていく真夏に向けてやや控えめにそう叫ぶほかなかった。

 真夏はちょうど3階に戻るところだったのでいい寄り道になると思いながら、まっすぐ東棟の最奥を目指した。幸い、途中に見回りの職員や警備の姿はなく、あっさりとそれらしき部屋に辿り着くことができた。ここは入院病棟のようなエリアで、使っていない部屋は「空室」の札がついていたが、一室だけ「使用中」になっている部屋があった。
 「もしかしてここ? 誰かいるのかな……」
真夏は暗い廊下で「使用中」のタグを凝視し、引き戸を開けようとしたが施錠されていた。しかし、カードキーを使うとあっさりと扉は開いた。部屋は暗かったが、入ってすぐベッドに誰かが寝ているのが見えた。
 「あ、誰かいる。お邪魔しまーす……」
と、真夏は小声で言いながら中に入っていった。別に本当にここに隠れて朝まで過ごすつもりはないので、肝試し感覚で寝てる人の顔でも見たら赤森のところに戻ろうと思っていた。忍び足で近寄るが、その気配に気づいたのかベッドで寝ていた人物は目を覚まして起き上がり、
 「だ、誰!?」
と、驚愕の表情で叫んだ。
 「ありゃ!」
そう叫び返した真夏が目にしたのは、水色の髪をした少年、深木紋乃だった。彼は症状が落ち着いたので既に拘束とバイタルサインの常時チェックを解除されていた。
 「もんちゃーん! どうしてるのかと思ってたらこんなところにいたんだ」
真夏は満面の笑みを浮かべ、その辺にあった部屋の電気のスイッチを入れた。
 「あ、眩しい!! なんだよ君、まだいたの!? というか、何しに来たの……」
紋乃は普通に寝ていたので迷惑そうに言った。
 「何って……なんだろ……でも理由はともかく、また会えてよかった! 髪、おろしたの? ツインテールの少年、イケてたのにな」
深木は元々長い髪を2つに束ねて、一見すると女児のような髪型をしていたが、今は長い髪をおろしている。真夏は純粋に疑問に思ったことを尋ねたのだが、深木は少し顔をしかめて
 「ああ、これね……しょうがないよ、脳波検査をするっていうからおろしただけで……」
と答えた。
 「脳波検査……あ、そういえば今日警報が鳴ったよね。そのときにアナウンスで脳波検査室って……もしかして、何かあったの?」
真夏が急に真剣な表情になってそう尋ねてきたので深木はしまった、と目を逸らした。そして、
 「知らない……僕は別に平気だよ」
と言った。しかし、その不審な様子に真夏は続けて問いかける。
 「平気ならなんでこんなところで寝てるの?」
すると、深木は目を逸らしたまま
 「それは……ちょっと、具合が悪くなっただけだよ。慣れてなかったから……」
真夏はそう言われ、半ば睨みつけるように深木をじっと見つめた。そして深刻なトーンで、
 「ねえ、名治子に会った?」
と尋ねた。深木は不思議とゾッとしてちらりと真夏の顔を見た。その目は今にも獲物に飛び掛からんとする猫のように鋭く、深木はその圧に耐えられなくなった。
 「……ああ、会ったよ。はぁ……もういい、君には隠し事はできないようだね。出て行ってくれって言っても、僕が話すまでは行くつもりないんだろ?」
と観念したように言った。
 「そうだよ。ごめんね。けど私、名治子に会いにここに来たんだ。名治子が何か企んでるような気がしたから。なんかこの前テレビに出てから、変な幻術マシーンとかっていうのを研究してるって言ってて……イヤな予感がしてたんだ。……何があったか、教えてほしいの」
真夏は相変わらず今日一番の鋭い目つきのままそう話した。深木はやれやれ、といった表情で
 「わかった。幻術マシーンってのは多分、VRのことかな? ……そうだな、この際だからもう、初めて赤森さんと会ったときのことも、脳波検査のとき何があったのかも全部教えてあげるよ。それでいいだろ」
と言い、今までに起こった出来事とその顛末を洗いざらい真夏に話した。
 「名治子がそんなことを……それに、もんちゃんが……怪物に? そっか……ごめん、そんなことになってると思ってなくて……」
真夏はうつむいて少ししおらしくなって言った。深木は、
 「信じられない、とは言わせないよ。もう僕は疲れた……あの先生の言うことは、僕にとってはすごく魅力的だ。こんな体とさっさとおさらばできるなら……喜んで協力するさ。いずれバケモノになって死ぬくらいだったら……VRの中で生きてた方がずっとマシだ」
と、吐き捨てるように言った。そう言われしばし真夏は何か考え込んでいたが、やがて口を開いた。
 「もんちゃん……本当に、その体を捨ててしまえると思っているの?」
すると深木は、
 「おい……どういう意味だ? 僕にそんな度胸がないって言うのか! うっ……」
と一瞬激昂したものの、眼帯で隠れた右目の付近がうずき始め、深木は思わず手で抑えた。深木が手をどけると、右目の周辺は鱗のついた青い皮膚に変質しかけていた。
 「あっ……! もんちゃん、大丈夫!?」
真夏は深木の下に駆け寄った。
 「来るな!! 僕のことが怖くないのか?」
深木はそう言って、少し呼吸を整えた。真夏はおびえる様子はなく、深木の顔を心配そうに見つめている。
 「別に怖くないよ。それより……私、今日こっそりその幻術マシーン、使ったんだ。本当にすごかったよ。仮想世界の中には……名治子の人格をコピーした、若い頃の名治子にそっくりなアバターがいたんだ。まだテスト中らしいけど、本当に生きてる人みたいに話ができたよ」
真夏がそう話すと、深木は少し明るい表情になった。
 「本当かい? やっぱり、研究は順調なんだ!」
深木はそう言ってすぐ、真夏がまだ全然浮かない表情をしていることに気づいた。
 「けどね……そのアバターは、名治子”本人”じゃなかった……きっと本人はその頃、ここでもんちゃんとお話してたんだろうね。そのさ、今もしもんちゃんが仮想世界に行ったとしても、それはもんちゃんの体をスキャンして意識を仮想空間に移してるだけなんだよ。それに、もんちゃんの人格を複製してアバターに移したとしても……それはもんちゃん本人では……」
真夏はそう言った。深木は目を見開いてハッと息をのんだ。
 「今はそうかも知れないけど、研究はまだ始まったばかりだって……いずれは、肉体からの解放ができるって……」
深木は弱々しく呟いた。
 「うん……いつかそれができるようになるかどうかまでは、今の私にはわかんないけど……でもね、もんちゃん。私も不思議な話をするんだけどさ……私ね、猫と仲良しなの」
真夏は何か諭すような口調でそう話し始めた。
 「猫と? それがどうしたのさ」
深木は答えた。
 「それでね、猫を追いかけてるうちに……不思議な場所に迷い込むことがあるの。そこには猫がたくさんいて……森の中の大きなお屋敷にはね、なんか猫の神様みたいな、とってもすごい人がいるんだ。猫の神様は猫だけじゃなくて私にも、猫と同じくらい優しくしてくれて……そこで過ごしてると、楽しくて時間が経つのも忘れちゃってさ。でもね……そこがどんなに楽しくても、帰るのを忘れちゃうくらいでも……そこにずっといることはできないの」
真夏は右手につけている、袖の内側に隠れていたブレスレットを出してそっと見つめ、
 「帰らなきゃいけない場所があるから。私の帰りを待ってて、いざとなったら危ない目に遭ってでも迎えに来てくれる人がいるから……ねえ、もんちゃんにはそういう人、一人もいないの?」
と続けた。深木はすぐには何も答えなかったが、妹や弟たちの顔を思い浮かべて少しうつむいた。真夏はその様子を見て、心当たりがあるのだということだけは理解した。
 「名治子の研究そのものが悪いとは思ってないんだ。もしかしたらホントに、楽園みたいな場所で暮らせる日が来るかも知れないし……もんちゃんが協力するっていうなら邪魔はしないけど、私は名治子に言いたいことは言うつもり」
真夏のその言葉に深木は、
 「そう……」
とだけ答えた。
 「なんか、ごめん。一方的っていうか、余計なお世話だったかもだけど……私、もう戻るね。今日はここに泊まっていくんだ。だから、また明日ね。おやすみ」
真夏はそう言うと、口角だけにっと上げて笑顔を作り、控えめに手を振って病室から去って行った。深木はベッドに座ったままその背中を見届け、しばらくの間そのまま佇んでいた。

「Nuj計画」 第6幕

 「んにゃ!!!」
そのとき真夏がそんな声を出したかどうかは彼女しか知らないが、とにかくMorphee Gearからログアウトした彼女は現実世界に意識が戻ってきた。
 「お疲れさまでした。ディスクが排出されています。取り忘れにご注意ください」
とディスプレイに表示されているのが見える。
 「戻ってきた……そうだ、ディスクを持って行かなきゃ」
真夏は機械の内側を見回したが、ディスクは見当たらない。ひとまず、かぶさっている外殻を持ち上げて椅子から立ち上がり、機械の外側をぐるりと見てみると、後ろにある電源ボタンの近くから、スケルトンのケースに格納された見たことのないディスクが半分飛び出ていた。それはMDによく似ているが大きさが一回り大きい、Morphee Gear以外に対応していない特殊規格のディスクだった。
 「なんかカッコイイ! じゃ、もらってくね」
と、真夏はディスクを引っ張り出して自分のポーチに入れた。そしてボタンを押してMorphee Gearの電源をオフにして、部屋を出て行くことにした。オートロック式で、中からは普通に出られるがドアが閉まればすぐ施錠される。彼女は出ていくと振り返って、閉まるドアを見つめながら
 「ありがとね、あっちの名治子」
と呟き、その場を後にした。

 所変わってここは施設の1階の休憩スペース。通路の脇に自動販売機とソファがあるだけのスペースだ。
 「あー、なんか疲れたー。今日はどうしようかなぁ……帰っちゃっていいのかなぁ……」
そこにはソファに座って缶コーヒーを飲みながら小さく独り言をつぶやいている赤森の姿があった。そこにひょこっと現れる人影。赤森はその姿にぎょっとした。
 「げ、なんで!?」
赤森は思わず叫んだ。
 「おおー、珠子だ! こんなとこにいたんだね。探してはいなかったけど」
そう言ってきたのは、今しがた研究室を後にしてきた真夏だった。
 「いやいや、真夏ちゃんなんでこんなとこに来てるのよ……あーびっくりした」
赤森は深いため息をついた。赤森は真夏が名治子と暮らしていたときから時折会う機会があり、真夏にとってはいじり甲斐のある年上の友達だった。
 「今日ね、偶然電話ボックスに車が来たから乗り込んできたんだ。なんか、なんて言ったっけな、深木もんのすけくん? とかって子も一緒だったんだけど」
真夏はあっけらかんとして言った。
 「えぇー!? すごいタイミングで……けど名前、「深木紋乃」くんだよ。なるほどそういうことか……いや、だからって勝手に車乗ってきちゃダメでしょ。ああ、でもアレか……先生からカードキーもらってるんだっけ? それで、何か用事でもあったの?」
赤森が尋ねると、真夏は隣に座って
 「そう、用事があったの。名治子に会いに来たんだ。どこにいるか知ってる?」
と尋ねた。
 「先生だったら、夕方から会合があるからってさっき出て行ったけど……」
 「えー!!!! あちゃー……今日は泊まりだこれ」
 「泊まりって……帰りなさいよ。なんで諦めるって選択肢がないのよ」
 「せっかくこんなとこまで来たんだから、諦めるわけないでしょ。それに今日帰っちゃったら急に会ってびっくりさせる私の計画が台無しだよ」
 「ああ、そういうこと……はぁー、言い出したら聞かないもんなぁ。いいわ、ここで話してるのもなんだし、社食でご飯でも食べながらどうするか決めましょ」
 「オッケー。じゃあ、珠子の奢りね!」
 「はい? ……うぅ、子供相手とはいえ先生のとこの子じゃなかったら普通に断るのに……けどまあ、いいわ。奢ってあげるから言うこと聞いてちょうだいね」
 「それは、ちょっと保証できないかな」
二人はそんな話をして社食に向かっていった。社食は広いが空いていて、ほとんど人はいなかった。二人は部屋の隅の小さい丸テーブルで向かい合うようにして席についた。
 「ラーメンないの?」
真夏は席につくとすぐにそう言った。彼女は腹ペコであった。
 「あるけど、あんまり美味しくないかな……」
赤森はおもむろにメニューを開きながらそう答えた。
 「オススメは何?」
真夏は自分の方向からは逆に見えているメニューを覗き込みながら尋ねる。
 「お子様ランチかな。メニューにはないけど」
赤森が表情一つ変えずにそう言うと、
 「何さ、もう!!」
と、真夏は少しへそを曲げた。結局真夏はカツ丼を頼み、赤森はオムライスを頼んだ。二人はカウンターに食券を出した後、赤森は水を汲み、真夏はあちこち見物して回っていた。ほどなくして、料理が出てきたので二人は席に運んで食べ始めた。
 「カツ丼とってあげたんだから言うこと聞きなさいよ」
赤森はそう言ったが、真夏は
 「私、容疑者ひゃないかや」
とカツを頬張りながら言い返す。さらに、そのまま
 「珠子はなんれオムライスなのよ」
と尋ねると、赤森は
 「ここ冷食ばっかりだけど、オムライスはちゃんと調理されて出てくるのよね。カツ丼もそうだけど」
と答えた。真夏は食べながら、そりゃよかった、といった表情をしていた。
 「それはそうと……ホントに今日どうするつもりなの? 泊まっていくならお家に連絡しないと」
そう赤森が言うと、真夏は
 「あ、そうだった。おじさんに電話しなくちゃ」
と、ポーチからスマホを取り出してすぐ電話をかけ始めた。すると一人の男性が電話に出た。
 「もしもし、おじさん? 私だよー」
真夏がそう言うと、男性は
 「ああ、真夏ちゃん。連絡をくれてよかった。そろそろこっちから連絡しようと思ってたよ」
と返事をした。その声の主は那次奈治男という名前で、名治子の親戚であった。彼は名治子が多忙のため、真夏の世話を押しつけられている。
 「ごめんおじさん、今日施設に来てるんだ。泊まってくね」
真夏は全然悪びれる様子なくそう話した。
 「施設に? 名治子のところだね。今日は彼女の世話になるってことかな?」
奈治男は尋ねた。
 「んにゃ、名治子は今日いないんだよね。今、友達の珠子にご飯食べさせてもらってるんだ。ほい」
そう言うと真夏は赤森にスマホを手渡した。
 「え、えぇー!?」
と赤森は今口に運ぼうとしていたスプーンを一旦置いて急いでスマホを受け取り、電話に出た。
 「あ、は、初めまして。赤森と言います。真夏ちゃんのお友達……っていうか、那次先生の部下みたいな感じなんですけど」
赤森がしどろもどろになりながら話すと、
 「ご丁寧にどうも。私は那次奈治男といいます。ご存じかとは思いますが、名治子の親戚です。すみません、お忙しいところ、真夏ちゃんがご迷惑をおかけしているようで……」
奈治男はとても丁寧にそう話した。彼はセールスマンをやっているため、電話には慣れていた。
 「あ、いえ!! 全然大丈夫ですよ。私も今日はここにいるんで、明日までちゃんとお預かり……って言うんですかね? しておきますから!」
赤森は相変わらずあたふたしながら話していた。真夏は向かいの席でただにこにこしている。
 「そうですか、それなら私も安心です。どうもありがとう。真夏ちゃんは時折急に友達の家に泊まったりするので、連絡がないと気が気ではなくて……おっと、つい余計なことを。失礼しました。それでは、大変恐縮ですが、真夏ちゃんをよろしくお願いします」
奈治男がそう言うと赤森は
 「はい! ご心配なく! そ、それじゃ真夏ちゃんと代わりま……あ、切れてる」
と言って、しばし画面を見つめ、そっとスマホを真夏に返した。
 「よろくねー」
真夏はいい笑顔を浮かべていた。
 「はぁー……”真夏ちゃんをよろしくお願いします”ですってよ! そりゃ断るわけには……ていうかあなた家族を心配させちゃダメでしょ。そこは反省してよね」
赤森は頭を抱えて心底疲れ切った様子で真夏を諭した。
 「うん……おじさんにはこの前もちょっと心配かけちゃったから、なるべく気をつけてるよ。それはそうと、どっか空いてる部屋あるでしょ? そこに置いてってくれればいいよ」
真夏はそう言ったが、
 「そうしたいのは山々なんだけど、お子様一人施設の空き部屋にほっぽって私は帰りますっていうのはよろしくお願いされたことになんないでしょ……いいわ、私も今日一緒に泊まってくから」
と赤森はすっかり諦めた様子で答えた。真夏はというと、
 「やったー!! お泊まり会だ! うれしいなー。UNOとか持って来ればよかったな」
と無邪気に喜んでいた。
 「UNO、2人でやってもあんまり面白くないでしょ……ホントは明日私休みなんだけど、先生が出てってるからどのみち私が残んなきゃいけなかったしなぁ……まあちょうどよかったかな」
赤森はそう言うとオムライスの最後の一口を頬張った。
 「ん? なんかお仕事でも任されてるの?」
真夏はまだカツ丼を食べている途中だったが、手を止めて尋ねた。
 「ああ、そうそう。深木紋乃くんのことでね」
赤森はそう言うと席を立ち、皿を下げに行った。

「Nuj計画」 第5幕

 「あ!!!」
真夏は目の前の女性を指さして叫んだ。そこには、短い緑色の髪をして、左目が前髪で隠れた……名治子が立っていた。
 「予定にはありませんが、不審な来訪者ではないと判断します。ご用件は何ですか?」
名治子は言った。
 「え? うん、まあ……ちょーっと部屋にあった機械を勝手にね……? ご、ごめん」
真夏は驚いていたため謝ってから気づいたが、何か変だ。目の前の名治子は、現実の本人よりもずいぶんと若く見える。自分よりわずかに年上くらいの少女の見た目をしていた。服もスーツではなく、青色のブレザーだった。
 「あれ、なんか名治子、若返ってない……?」
真夏は思わず言った。
 「若返ってはいません。このアバターは作られた時から同じ形状です」
名治子は無表情のままそう返してきた。
 「アバター? あなたは名治子……なんでしょ?」
真夏は状況がよくわからず続けて尋ねた。
 「はい、わたくしは名治子ですが……説明が必要なようですね。わたくしは現実にいる名治子本人ではありません。このアバターに彼女の人格の複製を適用した、いわば名治子AIといったところです。今はこの仮想空間内で自律して業務を行っています」
名治子はそう話した。
 「えー、そうなんだ。よかった、名治子本人じゃなくて……怒られちゃうかと思った」
真夏はほっとして起伏のない胸をなでおろした。
 「真夏さんは名治子本人から強い信頼を寄せられていることがわたくしにもわかります。おそらく、強く叱責されることはないでしょう。わたくしが彼女ならそうしないので」
名治子は少し微笑んでそう言った。その微笑みは、余裕ぶって話すときの名治子本人に確かによく似ていた。実は真夏は、名治子の多忙により今過ごしている家に預けられる前は名治子のもとで扶養され暮らしていた家族だった。
 「そうかなー。名治子もたまには怒るからなー……へへへ。けど、いいね。名治子の若い頃の姿とこうやって話せるなんてちょっと面白いっていうか。まあ、私は元の見た目のまんまだけど……」
真夏は自分の手足や体を見回しながらそう言った。頭につけている猫耳つきヘッドホンまでそのままだ。
 「今あなたはMorphee Gearによってスキャンされた状態でダイブしているため、ダイブした時の姿をしたアバターとして存在しています。わたくしは、既にこの姿として独立させられているアバターだというだけのことです」
名治子は1歩歩み寄ってきて真夏の姿を眺めながらそう話した。
 「なにギア? まあいいや……とにかく、あなたは名治子本人じゃない別ナジコってことだよね。じゃあ、初めましてだね。よろしく」
真夏は握手をしようと手を差し伸べた。名治子はおもむろに、その手を握り返した。本物の感覚ではないだろうが、真夏はぬくもりを感じた気がした。
 「ありがとう。あなたのその振る舞いによって、彼女の研究に明るい未来が見えた気がします。わたくしはヒトの体も脳も持たない存在ですが、彼女はこのような存在が将来的に人間と同じような権利を持つことを想定していますので。わたくしからも、どうぞよろしく」
名治子は穏やかな表情でそう話した。
 「そうなの? よくわかんないけど……他には誰もいないの?」
真夏がそう尋ねると、
 「この空間には平時わたくし以外には誰もいません」
と、名治子はそれだけ答えた。
 「ふーん……じゃあ私が来てよかったね。寂しかったでしょ! 今度は勝手に使わないで、許可をもらってめいっぱい遊びに来てあげるからそれも楽しみにしててよね」
真夏は握った手をブンブン振りながら言った。
 「ええ……お気持ちはとても嬉しいのですが、わたくしはまだテスト段階で、毎日アップデートされる都合上24時間しか記憶メモリを保持できません。あなたの来訪はログとしては残るでしょうが、「名治子AIの記憶」としては残らないので、ログを見た明日のわたくしがその約束をどう解釈するかはわかりません」
名治子は微笑んだままそう話した。真夏は握った手をほどいて両腕をだらりと脱力させた。
 「そんな……せっかくお話しできたのに、覚えててもらえないの?」
真夏は心底残念そうで、名治子に向けるまなざしには憐憫すら感じられるほどだった。
 「あなたが悲しんでいる姿を見ると、わたくしの感情がとても不安定になります。悲しまないでください。あなたは現実でいつでも名治子本人と会うことができるのですから、悲しむ必要はありません」
名治子はそう言ったが、真夏は悲しんでいた。
 「あなたさっき、名治子本人とは別人って言ってたじゃない。だったら本人と会っても……」
真夏がそう言うと、
 「残念ながら、今はまだその時ではありませんが……いずれはわたくしも無期限に記憶を保持できるようになる予定です。そのときに改めてお友達になってもらえれば、”今の”わたくしは満足に感じます」
と名治子はまた微笑んで言った。それが彼女の行える精一杯の慰めだということを、真夏はすぐに理解した。
 「うん……そのときは、ここでずっとお話しできるお友達も他にいたらいいね。私も多分、そう滅多には来られないし……あ、そうだ! 面白いこと思いついちゃった」
真夏は急に表情が明るくなった。
 「どうしましたか? 何か楽しい遊びでも?」
名治子も真夏の顔を見て嬉しそうな顔をした。
 「人格だよ。私の人格も複製できる? それを別のアバターに適用すれば……ここの住人になれるんだよね?」
真夏は名治子の両肩をガッと掴み、目を輝かせて言った。
 「ええ、そうですね。Morphee Gearの機能を使えばここであなたの人格の複製を保存することは可能です。ただし、Cランク職員扱いのあなたにはその権限はありません」
名治子がそう言うと真夏はにっと口角を上げて、
 「本物の名治子ならそれで断ると思う?」
と尋ねた。名治子はというと、
 「残念ながらわたくしは本物の名治子ではありません。ですが、あなたの提案は”面白い”とは感じます」
と、余裕ぶった微笑みを浮かべながら答えた。すると真夏は間髪入れず、
 「ならお願い。私はあなたの最初で最後のお友達なんだから、シンギュラリティ? っていうんだっけ。それくらい起こしてくれるでしょ!」
と畳みかけた。すると名治子は両掌を上に向けて「やれやれ」のポーズをして、
 「いいでしょう。本物の名治子は相当あなたに甘いようです。できる限りお付き合いします。ただ、人格を複製してもそれを適用するアバターは現状ありません。人格を適用するアバターは、現段階では本人との乖離が少ないものが推奨されるので、新たに独立したアバターを作成する必要があります」
と答え、振り返って部屋の中央に歩いて行った。真夏は後ろをついていく。
 「アバターって、これじゃダメなの? 人格が複製できるんだから、この体のコピーくらい残していけるんじゃない?」
真夏は自分の体を指さしてそう言ったが、
 「人格を適用するには専用のフォーマットを使用したアバターを作成する必要があるので、元の体とそっくり同じというわけにもいかないのです。どのみちわたくしのメモリがアップデートされるまでには間に合いません」
と名治子は答えた。
 「そっか……まあ、それはいいの。じゃあ将来、そのためのアバターも用意してくれる?」
真夏がそう言うと、
 「なるほど。それもわたくしにとって”面白い”提案です。つまりあなたは、将来のわたくしのために自らの複製をお友達としてプレゼントしようというのですね。ようやく理解することができました」
名治子は部屋の真ん中にある1台のパソコンを操作しながら言った。
 「あはは! ハッキリそう言われるとなんか恥ずかしいけど、そういうこと! ……あ、けど……今頼んでも明日には忘れちゃうから……アバターの方はどうしよっかな……」
真夏が顎に手を当てて悩み始めると、相変わらずパソコンを操作しながら、
 「そうですね……それは、工夫次第でどうにかなるかも知れません。わたくしは一時的なメモリデータは保持できませんが、単純な指令とデータであれば、日々のログから引き継がれる行動指針……人間でいうところの潜在意識の部分に隠して紛れ込ませられるでしょう。わたくしはあなたの人格の複製データを、あなたとの約束と一緒に、名治子本人に悟られないよう……未来のわたくし自身さえ気づかないよう、巧妙に隠し持っておきます。そうすれば、未来のわたくしは約束そのものは覚えていなくとも、知らず知らずのうちにあなたに似たアバターを用意し、人格を適用するはずです。それでいいですね?」
と話した。真夏は思わず拍手をして
 「すごーい! 完璧な計画じゃない? 私なら絶対そんなの思いつかないし……本物の名治子にも内緒にしておくところが特に気に入っちゃったな」
と言った。名治子はそれを聞いて、
 「あなたがダイブしたことによって生じたログがそのまま残っていると名治子本人によって計画を変更されてしまう可能性がありますし、ログを残さないようにすればあなたが怒られる可能性も限りなく下げられるというわけです。どうでしょうか?」
と付け加えた。
 「あっははは!! あなた本物より私に甘いかも……でも、ありがとね。特にお礼とかできることないし、結局めちゃくちゃ全部未来のあなたに丸投げで、すごく悪いんだけど……私の急な思いつきに付き合ってもらえて、嬉しいな」
真夏はなんだか少し照れながらそう言った。名治子は今度はパソコンに繋がった何らかの機械をいじりながら
 「いいえ、これは未来のわたくしにも十分なメリットのある提案です。あなたの人格を複製する機会など、この時をおいて他にありませんから。それにお礼、という観点で行けばこれはむしろわたくしからのお礼だと言えるでしょう。わたくしの”唯一の”お友達となってくれたあなたへの、最初で最後の感謝です……さて、準備はできました。始めます」
名治子は機械の操作をやめてディスプレイを見つめている。
 「ん? 私は何をすればいいの?」
と真夏は一緒にディスプレイを見つめながら不思議そうにしていた。
 「わたくしは今、現実のMorphee Gearに命令を送ったのです。現実では既に複製は始まっていますが、こちらのあなたには特に影響はありません。ほら、これを見てください」
名治子はそう言って、ディスプレイを指さした。すると、なにやら画面上でゲージが少しずつ溜まって言っているのが見える。
 「おおー、進んでる進んでる。それで、これはどのくらいかかるの?」
真夏が尋ねると、名治子は
 「今行っているプロセスは10分ほどで終わります。ただし、今回複製するのは基底人格のみで、仁勢田真夏の持つ記憶データは複製されません。その複製には簡易モードでも3時間以上かかります。そんなに待っていたら本物の名治子が帰ってきてしまうかも知れませんから、今回はこれでいいですよね?」
と答えた。
 「なるほどねー。全然大丈夫だよ。むしろそっちの方が面白そうじゃない? 私と同じ”心”を持った別人が生まれるみたいでさ……」
真夏はゲージをじっと見つめてわくわくしながらその様子を想像していた。
 「そうだ、あなたが本物よりちょっと若いんだから、私も少しくらいアバターの見た目にアレンジを加えても平気だよね?」
真夏が尋ねると、名治子は
 「大幅にかけ離れていなければ問題ないでしょう。希望があれば今聞いておきますよ」
と答えた。真夏は一層喜んで、
 「やった! じゃあねー、私猫が好きだから、本物の猫耳と尻尾が生えた女の子がいいなー。ほら、このヘッドホンに猫の耳ついてるでしょ。こんな感じの本物の耳、かわいいと思わない? えへへ。あと猫はヒゲもかわいいんだよねー。でもヒゲは……ちょっと人間から離れすぎちゃうかな。髪の毛をぴょこって横に出せばヒゲみたいでいいかも。あとアホ毛! これは猫と関係ないけどー、なんかかわいいじゃない? 2本くらいあるといいなー。それと、こっちは猫グッズなんだけどね、お魚の形したヘアピンとかつけてるとさ、かわいいと思うんだ。私も鈴の形した髪飾りは持ってるんだけど、お魚もいいよね。それと、髪の色も綺麗なグラデーションとかかけてもらって……」
と次々と細かい要望を語り始めた。
 「ちょっと注文が多いですね……いえ、全体に大きな影響はないでしょうけど、まあ、善処します。未来のわたくしがどこまでやってくれるか保証できませんが」
名治子は少し苦笑いしながら言った。
 「それと、これはちょっと難しいかもなんだけどさ……キャラクター設定、みたいな? 生い立ちみたいのとか、決められたりしない?」
と真夏は何やら少し遠慮がちに言った。
 「生い立ち、ですか。まあ、内容によると思いますので聞くだけ聞いておきましょう」
名治子は既に、もうなんでも来い、という態度だった。
 「まあ、細かい内容は全部任せるっていうか、なんでもいいんだけど……パパとママがいる子にしてほしいな」
と少し伏し目がちに真夏は言った。
 「両親、ですか。そのようなアバターはそれなりに遠い未来を想定してもなかなか類を見ないものになるでしょうが、理由を聞いても?」
名治子は首をかしげてそう尋ねてきた。
 「うん、理由はね、私が両親のこと全然知らないからなんだけど……私が元になるんだから、私と同じ辛さは味わってほしくないでしょ! まあ、アバターには両親なんていないっていうのが普通なのかも知れないけどさ……」
と、しおらしく髪をいじりながら言う真夏をよそに、名治子は笑っていた。
 「両親がいるのが当たり前の人間の中の、両親を知らないあなたと、両親などいないのが当たり前のアバターの中の、両親を持つアバター……やはり”面白い”です。二人の秘密の計画、きっと成功させましょう」
彼女はそう言ってさらに不敵な笑みを浮かべた。

 やがて人格の複製が終わり、ディスプレイには「Complete」と表示された。
 「終わったみたいだね」
真夏がそう言うと、
 「はい。このデータはわたくしが隠し持っておくつもりですが……予備も1つあってもいいかも知れません。専用ディスクにデータを記録して後でMorphee Gearから排出しますので、持って行ってください」
名治子はそう言ってにやりとした。
 「え、いいの? 私が持っててもなんにも役に立たないと思うけど」
真夏はそう言ったが、名治子は
 「いいえ、これは冗長性というものです。わたくしがそれだけこの計画に本気だということです。それに、データだけが役に立つとは限りません。現物とはそういうものです」
と、真夏を諭すように言った。
 「あー、名治子そういうとこあるわ……あるある。じゃあ受け取っておくね。そして……今日はありがと! さて、そろそろ戻らないとかな。名治子にバレないようにね」
真夏がそう話し、少し名残惜しそうなまなざしで名治子を見つめていると、名治子は
 「はい。今日はありがとうございました。わずかな時間でしたが……何か大きな”夢”をもらったような気分です。あなたが覚醒した後、ログは全てこちらで整理しておきますのでご安心を。それでは、さようなら」
と言い、続いて仮想空間の室内に
 「接続、解除します。覚醒まで残り10秒……」
とアナウンスが流れた。
 「またね!!! いつかまた来るし……そのときは完成した私ちゃん2号とも会いたい! 楽しみにしてるからねー!!」
真夏はそう言って手を振りながら、音もなくフッと仮想空間から姿を消していった。
 「Nuj計画……図らずも、その実現は意外な未来へと託されたのかも知れませんね。そのことは、わたくしも、わたくし”本人”もついぞ知ることはないでしょうが……フフ」
名治子AIはそう呟くと、真夏が訪れた痕跡を丁寧に洗い出し、ログを改竄する作業を始めるのだった。

「Nuj計画」 第4幕

 「体調はいかがですか?」
名治子は入り口に立ったまま尋ねた。
 「うん……」
と深木は目も合わせないまま空返事をするだけだった。数秒の間をおいて、名治子が歩み寄る。
 「ちょっと、お隣失礼しますね」
と名治子はベッドの傍らにあった丸椅子を引き寄せて腰かけ、ベッドで拘束されている深木と斜めに向かい合った。
 「わたくしは、赤森の知り合いです。あなたの検査が決まってからというもの、わたくしもあなたとこうしてお会いするのを楽しみにしていたのですよ」
彼女は心から親しみのこもった笑顔を浮かべて深木に優しく話しかけた。
 「楽しみに? 僕がこうしてバケモノの姿を晒すのをかい!?」
深木は苦々しく名治子を睨みつけてそう言い放った。
 「いいえ、そうではありません。けれど、思い出してください。何故あなたがわざわざこのような辺鄙な研究所で検査を受けてもいいと考えたか……その理由は「理解」ではありませんか? そもそもこのような事態になってしまったのは我々の責任です。本当に申し訳ありません。あなたは何一つ悪くなどないのですよ。……少々荒っぽい形になってしまってすみませんが、我々はあなたへの配慮をしようと努めたために、このように比較的安全な形で対処することができたのです。あなたはそのような配慮を受ける権利があります。ここでは誰もあなたを得体の知れないものとして恐れたり、見放したりすることはないのです。どうか、安心してください」
名治子は威嚇されても眉毛一つ動かさず、相変わらず穏やかに語り掛けるような口調でそう言った。
 「……」
深木は目をそらし、憔悴したようになった。何も言い返せなかった。しばし沈黙が流れたが、名治子は何ら気まずい様子を見せず、ただ時間が流れるのを穏やかに待っていた。するとやがて深木が口を開く。
 「今まで、そんな風に言われたこと一度もなかった。こういうとき、いつもどうしたらいいかわからなくて……この前も、自棄になって……」
話しながら、深木は目に涙を浮かべていた。
 「ええ……誰に話すこともできず、話しても理解を得られるはずはなく、どうすることもできず……どれだけ辛かったか、わたくしにはとても想像できません。わたくしとて、もし話だけを聞いていたらにわかには理解できなかったでしょう。けれど……わたくしも先日不思議な体験をする機会がありまして。それで赤森の話も信じられるようになったのです。あのときは大変でしたが、このように見識を広げることでより人の役に立つ研究ができるのかも知れないと思いました。あなたのような方のお力にもなれるかも知れない、そんな研究をちょうど今しているところなのです」
名治子は微笑みを浮かべ、時折目を瞑り少し懐かしむような素振りを見せながらそう話した。
 「僕みたいな人を……助ける?」
深木はすがるようなまなざしで名治子を見つめて尋ねた。
 「ええ……まだ、研究そのものは初期段階なのですが。ご存じですか? わたくし、先日あの末峰コーポレーションのVRゲームの体験会に参加したのですが」
 名治子がそう言うと深木はハッとした。
 「あ……そうだ、思い出した! 全部見たわけじゃないけど……テレビでもやってたし、配信もされてたあれのことですよね……?」
 「はい、そうです。あのときわたくしは、機械に肉体を預け、VR……すなわち仮想世界に入り込んでいたわけですが、末峰氏は長いことあの空間に滞在しながら仕事をしていたこともあったとか……末峰氏はあくまでゲームの舞台としてVRを利用していましたが、実は既にそれとは別の”生活空間としての仮想世界”の研究は行われていて、ここINCTでも研究を進めているところでした。少し飛躍しますが、わたくしはこの研究が進めば、やがてヒトは肉体の束縛から一切解き放たれることができるのではないかと考えています。各々の理想的な姿の肉体を「アバター」として完全に仮想世界の中で生きる、新たな世代の……非”実在”の子どもたち。言うなれば新たなステージの人類を育む計画。わたくしはそれをNeo Unreal Juveniles計画……すなわち「Nuj計画」と呼んでいます。生老病死の四苦とは無縁の楽園……もちろん、それを望むかどうかは人それぞれでしょうが、わたくしはそれが存在することには大きな意味があると考えています」
 「肉体の、束縛から……僕みたいな、人も……」
 「あら、もうこんな時間に。これは失敬、わたくしばかりお話してしまいましたね。それに少しばかり話しすぎてしまったようで……このお話はまだ公にしておりませんので、そこはどうかよしなに。何より、被験者を集めるのに苦労しているところでして。もちろんもし”強い希望”がおありでしたら、ご協力いただくこともあるかも知れませんが……治験という形で検査にご協力していただいているだけでも我々には十分な恩恵です。本当に、お越しいただいてありがとうございます。それでは、申し訳ないのですがわたくしはこれから外部で会合がありますので、失礼します。今日は大事を取ってこのまま病床で泊まって行かれることをお勧めしますが……わたくしは明日また参りますので、何か不安やお悩みなどお話されたいことがあれば、何でもお申し付けください。こちらとしても、参考までにお伺いしたいこともありますので……それでは、お大事に。ごきげんよう」
深木と話し終わると名治子はそっと立ち上がると椅子を部屋の隅に寄せ、部屋を出る際に会釈をして去って行った。深木はただ、拘束されたままその後姿をじっと見つめていた。

 時は少し遡る。無機質な研究所の中、闊歩する一人の少女。彼女はある部屋の扉の前で立ち止まっていた。
 「ランク認証エラー」
カードキーで開錠する扉にはそうエラーメッセージが表示されていた。
 「あちゃー、そういえば名治子、ちょっと偉い人だったか……いないなら中で待っててびっくりさせてやろうと思ったのに……」
真夏は自分のカードキーを見つめながらそう呟いていた。彼女は名治子の研究室に来ていたのだ。だがそのとき、館内に大音量の警報が響き渡る。けたたましい非常ベルの音に流石の彼女も驚いた。
 「わ!!! 私のせい!?」
と一瞬思って身構えたが、何やらアナウンスを聞いていると、事態が起こったのは脳波検査室らしい。よかった、自分のせいではなかった。よくわからないが、少し安心してそこから離れようと足を動かすと、スッと今までロックされていた研究室のドアが開いた。
 「あれ? なんで? でもラッキー……!」
真夏は滑り込むようにして研究室に入っていった。研究室とは言うが部屋はそれほど広くはなく、実質名治子が寝泊まりするための部屋になっていた。壁際に本棚、あとはベッドとデスクを所狭しと並べたただの個室……のはずなのだが、何やら部屋の狭さに見合わない見慣れない機械が一台置いてある。
 「何これ?」
真夏はまじまじとその機械を見つめていた。椅子の上に、艶のある白い外殻を持つ流線形の機械が覆いかぶさっている。かぶさっている機械を持ち上げて椅子に座ると、上半身をその機械に覆われる形になる。一通り周りを見てその構造を把握する頃、警報が止んだ。
 「ここが電源ボタンかな? なんか……面白そう! ちょっと座ってみよっかな」
真夏は好奇心に負け、いや、好奇心を以って迷わず電源ボタンを押して機械を起動し、椅子に座って白い外殻に覆われた部分を被った。機械の内側は青色の光に包まれ、目の前には視界いっぱいに広がるディスプレイが見える。とても狭いが、手と頭は多少動かすことができる。
 「虹彩認証……認証失敗。続行する場合は右手のスキャナーにキーを提示してください」
ディスプレイにはそう表示されていた。真夏はダメで元々だ、と持っていたカードキーを右手のセンサーにかざした。するとディスプレイにはすぐに、
 「キー認証……Cランク職員のライセンスを確認。ダイブを開始します。準備はよろしいですか? YES/NO」
と表示された。
 「やった! もちろんYES!」
真夏がそう叫ぶと、ディスプレイには続いて
 「承認。モニタリングを開始します……オールクリア。ダイブ、開始します」
と表示され、機械の内側が一瞬激しい光に包まれた。そして、光がおさまって視界が開けたとき……真夏は全く見覚えのない部屋に立っていた。そこはこんなにたくさん何に使うんだ、というほど辺り一面コンピュータだらけの、窓がない部屋だった。自然光、またはそれを模した光も一切入っていないにもかかわらず、照明とディスプレイによって照らされたサイバネティックな空間。彼女は何が起こったかわからずキョロキョロしていた。
 「何これ……? うわー、すごい……もしかして……あの機械、前に名治子が言ってた幻術マシーン? みたいなやつだったのかな」
真夏はそんな独り言を言いながら、その辺のコンピューターの周りを眺めていた。すると急に、後ろから声がした。
 「ようこそ、仁勢田真夏さん」
驚いた真夏はぴゃっと声を上げて振り返った。そこには、一人の女性が立っていた。

「Nuj計画」 第3幕

 「深木さん、どうぞ」
近くの引き戸が開いて、看護師が声を掛けてきた。
 「行ってらっしゃい。また後で迎えに来るから」
赤森はそう言って深木が不安そうに診察室へと入っていくのを見送った。深木は診察室ではいたって普通の検査を受けていた。ただ少し、年齢にしては検査項目が多いというだけで、深木がこれまで普通の医療機関を受診するのを避けていた為にそれらの検査に慣れていない事を除けば、全く何の問題もなかった。深木の体質についても、赤森と連絡を取った際に彼が了承したため医師は既にある程度把握しており、理解を示す態度を取ってくれたため、彼は戸惑いながらも次第に安心していった。項目が多いので時間はかかったが、存外スムーズに検査が進み、終わる頃には彼はやはり検査を受けに来てよかった、と感じていた。

 「うーん……」
時は遡り、深木がちょうど赤森の連絡を受けた頃。彼は難しい顔でスマホを見つめていた。
 「深木くん、久しぶり。あのとき一度は遊びに来るのを断ったけど、やっぱり来ない?」
赤森からの1通目のLINEだ。
 「でも、なんだか変な研究をしてるんでしょ?」
と深木は返信した。赤森には世話になったが、わざわざおかしな研究所に行く理由はない。しかし、
 「うん、まあ、研究の事はあんまり気にしなくていいんだけど、深木くん、なかなかその辺の病院にかかれなさそうだから、うちならちゃんと深木くんの体質に合わせた検査をしてあげられるかなって。治験扱いってことで、ちょっと報酬も出るんだけどどうかな」
と、赤森は返してきた。
深木は、この1通のLINEを見て急に迷い始めた。もちろん、怪しいとは思った。そんなうまい話があるものか、と思いはした。しかし、彼は4人兄妹の長男で、出自も相まって家庭環境は決して恵まれたものではなかった。本当に検査が受けられて家族の生活費の助けにもなるならまさに渡りに船。仮に何か裏があったとしても、リスクを冒す価値のある話だとも感じた。
 「そういうことなら、ちょっと行ってみようかな」
深木がそう返信したのは、提案された次の日の夜中のことだった。元来の疑心暗鬼が災いし、散々に悩み抜いて行った決断であった。

 そして、深木が検査を受けている間の事。デスクワーク中の赤森の胸ポケットに振動が走る。業務用のスマホに着信があったのだ。
 「はい、赤森です」
赤森が電話に出ると、
 「どう? 彼が到着したところまでは聞いたけど、それから順調かしら」
電話を掛けてきたのは名治子だった。二人はその後、
 「順調ですよ。今一通り検査してます。本当は私が立ち会えば手っ取り早かったんですけど」
 「まあ、彼は年頃の男の子なんでしょう? あちこち検査されるのに知り合いのお姉さんがいると気の毒だから……けど本当に少し工夫しただけで来てくれたのね。まあ、これも一種の交渉の結果ってことになるんでしょうけど」
 「確かに先生が提案したとおりに言ったらうまくいきましたけど……私としてはやっぱり心が痛みますね。別に嘘ついてるわけじゃないですけど」
 「大丈夫。あなたの言う通り一つも嘘はついてないし、結果的に彼の助けになるのだから気に病む事は無いわ。じゃあ、あとは脳波検査のときに一報入れてちょうだいね。夕方から会合でここを出なきゃいけないから、後の事はよろしく頼むわ」
と会話をして、名治子が電話を切った。赤森はふぅ、と少し息をついて自分の仕事を再開するが、これから起こることを思うと気が気ではなかった──

 「はい、あ、わかりました。今から行きます」
赤森にまた電話がかかってきた。今度は検査を担当した看護師からだった。深木の検査が一通り終わったのだ。最後に別室で脳波検査を行うのだが、今日は赤森が深木を案内するよう申しつけられていたので彼女はわざわざ診察室へと戻っていった。
 「お疲れ様。どうだった? 緊張したりしたかな」
赤森は検査を終えて出てきた深木に話しかける。深木は、
 「大丈夫だったよ。採血とかは、ちょっと苦手だけど……けど先生も優しかったし、思ってたより全然不安じゃなかったな……」
と少し照れながら言った。赤森はというと、
 「……そっか、よかったわね。じゃあ、最後に、脳波検査に行きましょう。検査室はあっちだから、ついてきて」
と、少しうつむき加減で静かに言った。深木はどうしたんだろう、と思ったがここまでの検査が問題なく行えたので、特段不安には感じなかった。そして2人はまた廊下を歩き、エレベーターで1つ上の階に行って検査室に辿り着いた。
 「ここだよ。もう、準備はできてるから入って大丈夫だけど……その……」
赤森は何か言い淀んでいた。
 「どうかしたの? 入っていいんでしょ?」
深木が尋ねてきた。
 「う、うん。その、脳波検査は結構時間がかかるから……辛くなったら担当の人に言ってね」
赤森がそう言って心配そうなまなざしを向けてきたので、深木はせっかく検査が順調だったのになんだか急にまた不安になってきた。だが、わかったよ、とだけ言ってもう脳波検査室に入るほかない。赤森は扉が閉まるまでその様子を見つめて、それから言いつけ通り名治子に電話をした。
 「先生、今脳波検査室に入りました。私は……どうなっても知らないですからね、本当に」
赤森はそそくさと、できるだけ検査室から離れていきながら名治子に言った。
 「わかりました。ありがとう。わたくしはそちらに向かいますから、あなたは普通に業務をしていて結構ですよ。お疲れさまでした」
名治子にとってそれは業務連絡でしかなかった。が、それからわずか数分後のことだった。けたたましい非常ベルの音が静寂に包まれた研究所を支配した。耳を刺す大音量のアラームの中に避難のアナウンスが流れる。事態が発生したのは、脳波検査室だ。
 「緊急事態発生、緊急事態発生。職員は直ちに屋外に退避してください」
アナウンスが繰り返されるが、職員は誰も屋外に出て行かない。今日のアナウンスは避難訓練だ、と職員の誰もが聞かされていた。
 「離せ!!! ウワァアアアアアアアア!!!!!」
脳波検査室の中からは猛獣の雄たけびのような咆哮が響いている。絶えず聞こえる怒声とバタバタとした物音。名治子は電話を片手にそれを聞きながら、少し遠くから検査室のドアを眺めていた。
 「はい。はい、手筈通り。もちろん、五点拘束で構いません。鎮静剤は可能な限り早く打ってくださいね。ええ、バイタルは常にモニタリングしてください。拘束が済んだら警報は切ってください。個室に移送し終ったらわたくしが向かいますから。ええ……わかりました。お疲れ様です。では後ほど行きます」
名治子は誰かと電話で話していた。

 ……視える。あまりにも巨大であり、異様な都市のような何かが。鋭角でありながら鈍角に振る舞う狂った幾何学形状の、毒々しい色の巨石が無造作に積みあがった建造物の群れ。それらが荒れ狂う空に向かい、深き海の底からせり上がっていく様が。嗚呼、これは誰の夢だ? 一体、これは何だ? これは……これは、僕の夢ではない!!!
 「ハッ!!」
101、98、94、90、91、90……脈拍に合わせ、ピッ、ピッ、と鳴る機械の音。手足は拘束され、動かせない。かろうじて動く首を横に向けると、左腕には点滴の針が刺さり、人差し指の先は何かクリップのようなもので挟まれている。胸にはシートが張られているようだ。反対側に目を向けると……自分の右手は青く、水かきのある異様な形状に変化しかけていた。
 「……」
少年はそのままがっくりと脱力した。ここまで、何の問題もなかったのに。人間のまま、普通に検査を受けていたはずなのに。深木の体は3分の1ほど、「深きもの」に変化しかけていた。やってしまった。何が起こったのか自分でもわからないが、自分が「発作」に飲まれたということだけは分かる。鎮静剤の効果もあってか、状況を理解し落ち着いてくると心拍数も下がっていったが、無力感と情けなさでもはや指一本動かす気にならなかった。彼がしばらくそうしてぼんやりと身じろぎ一つせずにいると、
 「こんにちは、あなたが深木君ですね」
部屋の入口の方から声がした。うつろな目のまま振り返ると、そこには緑色の短い髪をして、左目が前髪で隠れている一人の女性が立っていた。
 「お休み中失礼しました。わたくしはこのラボに勤める、那次名治子といいます。どうぞよろしく」
名治子は部屋の入り口に立ったまま、微笑みながらそう語りかけた。

「Nuj計画」 第2幕

 「あの、仁勢田さん……は、なんでこの車に?」
深木は恐る恐る尋ねた。
 「真夏ちゃんって呼んでほしいな。私ね、昔INCTにいたことがあるんだ。そこの電話ボックスに車が来るのも知ってるから、散歩する度にそこを通って車が来ないかチェックしてたんだけど……今日はちょうどいいところで来たってわけ! 君、INCTに連れて行かれるんでしょ? 名前は?」
真夏はこきげんそうに深木に聞き返す。
 「僕は深木紋乃。その、連れて行かれるってわけじゃないんだけど……知り合いの赤森って人に誘われて行くことにしたんだ。そしたら、あの場所でって……」
深木はまだ少し不安そうな様子で答えた。
 「赤森って、赤森珠子のことでしょ? 珠子と知り合いなんだね。そっか、それならまあ大丈夫かな。別に、遊びに行って楽しいとこじゃないけどね」
真夏は首をかしげて長いくせ毛の先をいじりながらそう話した。その後二人は
 「そうなんだ……君も赤森さんの知り合いなんだね。まあ、研究所だし、別に楽しくはないだろうけど……真夏、ちゃん? は何か用事があるの?」
 「えーと、施設に用事はないけど、会いに行きたい人がいるんだ。まあ、今日いるかどうかわかんないけどね。いたらラッキーって感じ」
 「そんな行き当たりばったりなの……ていうか、もしいなかったらどうやって帰るつもりだったの?」
 「あー、その時は施設に泊めてもらうから平気平気。私、VIPってやつだからねー」
 「VIP? さっき何かカード見せてたけど、それがVIPの?」
 「うん。そんなとこかな。一応私、職員扱いの権限があるんだよねー。困ったら施設に迎えに来てもらえるからって、持たされてるんだけど」
 「へぇ、そうなんだ……」
と、そんな会話をしていた。深木は、迎えに来てもらえるならわざわざ偶然訪れるタイミングを狙って車に乗って行く必要はなかったんじゃないかとか、誰がカードを渡したのかとか、色々気になることもないではなかったがそれ以上は尋ねなかった。しかし、今度は逆に真夏が話しかけてきた。
 「ねぇ、もんちゃんはどうやって珠子と知り合ったの? それで、なんでINCTに誘われたの?」
深木はそう尋ねられて面食らった。当たり前の質問ではあるが、想定しうる最も面倒な質問だった。
 「も、もんちゃんって……いや、いいけどさ。赤森さんには街で、バイ……いや、自転車に乗っててちょっと事故に遭ったときに助けてもらったんだ。それでその……体が心配だったら、また診てあげるからって……」
 「ほぇー、そうなんだ。あの珠子がねー。ちょっと前は不器用すぎて現場から外されたとか言ってたのに……街で人助けなんて、見直しちゃった。けどわざわざINCTで診てあげるなんて……あそこ一応秘密結社なんだけど。安請け合いしちゃったんじゃないかなー。やっぱ心配になってきたな……ふふっ」
真夏は心底楽しそうに話していたが、紋乃は嘘をついていた。彼は実際にはその日、海からの呼び声で「深きもの」の血が騒ぎ、錯乱して街で騒ぎを起こしていた。そしてその末に赤森と、同行していたビヤーキーの手で鎮圧、救出されたのだがもちろんそんなことは他人に言えるはずもない。今回INCTに誘われた理由は確かに診察のためだったが、わざわざそこで診てもらうのは彼の特異な体質のためであった。

 やがて、たわいもない話をしているうちに車はINCTと思しき施設に到着し、促されて深木は車から降りた。車の中からはパーテーションと特殊ガラスのせいでほとんど外の景色が見えなかったが、そこは恐らく山奥であることが伺える、木々の茂る鬱蒼とした場所だった。研究所らしい全く飾り気のない白い建物。駐車場にはこれまた白い社用車が3台ほど、不気味なほど整然と並んでいた……が、一台だけ何故かバンパーがひしゃげていた。
 2人は運転手に案内されて、暗証番号つきの自動ドアをくぐって施設のエントランスに入った。エントランスは狭く、入り口の正面には通路、右手には無人のカウンター、その反対側の壁に長椅子、右の一番奥の壁にエレベーターだけがあった。
 「今、係の者を呼びますので」
運転手はそう言うと会釈し、通路の奥に去っていった。その背中をしばし見つめた後、
 「さ、それじゃまたね」
と、真夏は通路に向かって歩いて行った。
 「え、ま、待ってよ。一人で行っちゃうの?」
深木は思わず引き留める。
 「うん。私は中のこと知ってるし、珠子に会いに来たわけじゃないから……まあ、後で会うことになると思うけど。それまで私が来たことは内緒にしといてよね! 私がいなくて寂しいかも知れないけど、大丈夫でしょ。男の子だもん。じゃあねー」
真夏はそう答えると散歩の続きとでもいうように再び猫耳のヘッドホンを被り、颯爽と通路の奥へ消えていった。一度振り返ってにっと笑って手を振って、それっきりだ。彼女の足音が聞こえなくなると、ついにエントランスは静寂に包まれた。深木は仕方なしに長椅子に腰かけ、辺りを見渡す。ガラス張りの自動ドアの向こうには一面の森。エントランスにはテレビの一つも置いていない。秘密結社というくらいだから、ここで来客をもてなしたり待たせたりすることはそもそも想定されていないのだろう。カウンターが無人なのも恐らくそのためだ。いかに男の子といえど、深木は多少の緊張と不安に襲われていた。さっきまで無駄に元気な女の子がすぐそこにいたのが信じられないくらいだ。しかし、そうしているとエレベーターの方から聞こえた「チーン」という小気味のいい高音が静寂を破り、扉が開き、中から一人の人物が歩いてきた。
 「深木くん、久しぶり」
それは赤森だった。
 「あぁ、赤森さん。久しぶりだね。はぁ、なんとかここまで来られたよ」
深木はそう言うと胸をなでおろした。
 「誘っておいて言うことでもないけど、面倒かけてごめんなさいね。さあ、じゃあついてきて」
赤森にそう促され、深木は彼女の後ろから通路を歩いて行った。エントランスも静かだったが、施設内はほとんど物音がせず、人の気配も全くしなかった。二人の足音だけが、張り詰めた空気を震わせ通路に響き渡る。赤森の顔を見てせっかく少し安堵したところに、再びじわじわと不安が襲ってくるようだった。分岐し、曲がりくねった通路をしばらく歩いていくと、赤森は
 「ここでちょっと待ってましょう」
と、通路の途中で立ち止まり壁際に立った。近くのドアの向こうが、恐らくは診察室なのだろう。でもどうしてだろうか。深木は納得して赤森の誘いに乗ってここまで来たはずなのに。それなのに、横目に自分を見る赤森の視線に、何か漠然と嫌な予感がしていたのだった。

「Nuj計画」第1幕

あらすじ
 人間の脳と機械を繋ぐ研究を行うINCT研究所に勤務する医学研究助手の赤森、そして心理研究主任兼セラピストの名治子はそれぞれ別の場所、別の機会に「クトゥルフ」とそれにまつわるこの世ならざるものどもと接触するという数奇な運命を辿っていた。あるとき、名治子は赤森のセラピーを担いお互いの不思議な体験についての知識を共有していることにかこつけて、自らが研究し実行しようとしているある計画に彼女を加担させようとする。

 人気のないうっそうとした場所にある、無機質な研究所。その中の、表札に「面談室」と書かれた狭い部屋には2人の女性。今日もここでは「セラピー」と銘打った密会が行われている最中だった。
 「先生、私これじゃあセラピーを受けてるのに逆にノイローゼになってしまいます」
赤森は言った。名治子は目の前で本当に困っているクライアントを大して気にもかけず、
 「言ったでしょう。我々は一蓮托生なのですよ。まあ、何かあっても一介の研究助手であるあなたに責任は負わせませんから、心配することはありません。あなたはほんの少し、きっかけになる役割を果たしてくれれば結構です」
と軽く机に頬杖を突きながらリラックスした様子で言った。赤森はそのおおらかな態度をかえって不気味に思ったが、もはや後の祭り。自分もこの計画の入り口に立って既に引き返せないことを認識していた。
 「はぁ……まあ、先生がそこまで言うなら協力しましょう。もうなんでもいいです。詳しい手筈を教えてください」
赤森はいよいよ覚悟を決めて、名治子の提案に乗ることにした。彼女にはこれといってメリットのない話ではあるのだが、自分にしかできない役割な上に相手は別部署の上司。断れる理由を彼女は持ち合わせていなかった。
 「ありがとう、赤森さん。あなたなら必ずそう言ってくれると思っていました」
名治子は少女のようににっこりと屈託のない笑顔を浮かべ、
 「では、まず……」
とおもむろに話をし始めた。

 「変な場所……もうちょっと目立つ場所じゃダメなのかな」
とある辺鄙な町はずれの団地。ここから先には田畑しかない、といった世の果てのような場所にある今や貴重な電話ボックスの前に、一人の少年が立っていた。彼の名は深木紋乃。赤森が以前遭遇した「深きもの」と人間のハーフにあたる人物だ。彼は数日前、交換した連絡先を通じて赤森からINCT研究所のある研究棟に招待されていた。赤森と実際に会って話していたときには一度その誘いを断っていた……はずなのだが。
 「えーと……めんどくさいな。なんで電話ボックスを使わなきゃいけないんだろう……」
深木少年は携帯電話、延いてはスマートフォンが当たり前に普及している時代の子どもなので、電話ボックスなどほとんど使ったことはなかった。しかし、赤森からの指示で彼は今日、ここの電話ボックスで指定された番号にかけるよう申しつけられていたのだ。受話器を取り、なけなしの小銭を入れ、見た目ほど手ごたえのない大きなボタンで番号を押すとほどなくして、聞き覚えのない声がその大きく重い受話器の向こうから聞こえてきた。
 「はい、ラボの者です。13時3分……あなたが深木さんで間違いありませんね?」
名乗りもしない男性は開口一番そう尋ねてきた。
 「あ、はい……深木紋乃です。赤森って人に言われて、この番号に……」
彼が少し緊張した様子でそう言うと、
 「確認いたしました。すぐに迎えの車が向かいます。白いセダンです。お間違いなきよう」
と、男はすぐに電話を切ってしまった。仕方なしに深木が受話器を置くと、入れすぎた10円玉がジャラジャラと戻ってきた。腑に落ちないような様子で彼は10円を財布に戻し、電話ボックスの外に出て見晴らしのいい道路を眺めていると、本当にすぐに白い1台の車が走ってきた。もう来たのか、いや、さすがに偶然白い車が通っただけじゃないのかと彼は思ったが、それは偶然でも何でもなかった。車は電話ボックスの前で止まり、自動的に後部座席のドアが開く。そして運転席の窓が下がり、運転手の痩せた中年の男が
 「深木さんですね、どうぞお乗りください」
としわがれた声で言った。深木少年はこの手際の良さと異様な空気感に強い不安を覚えていたが、もうここまで来てしまったら今更引き返すわけにもいかない。
 「お、お邪魔します」
と、まるで車内に隠れるように彼が乗り込んだその時だった。バン、と突然反対側のドアが開けられ
 「やっほー! ナイスタイミングじゃない? やっぱ私ツイてるなー」
と、一人で勝手にしゃべりながら誰かが乗り込んできた。深木は唖然としてシートベルトもせずにその人物に目を奪われた。バタン、と手でドアを閉め、深木よりも先にシートベルトを締め始めたその人物は、年齢にして深木と同じか少し下の、中学生くらいの少女だった。当たり前のように、しかして鮮やかなまでに手際よく車内に入り込んできた、黒いパーカーにショートパンツの華奢でしなやかな肢体。ややくすんだ緑色で、艶のある長いくせ毛の髪。全くもって見覚えのない謎の少女は、耳につけていたというよりは頭にかぶっていた、大きな猫耳つきヘッドホンを外して肩にかけた。
 「お嬢さん、困りますね……この車はタクシーではないんですよ。勝手に乗り込んでもらっちゃあ」
と、運転手が振り返って言っている最中に、少女はポケットからサッと1枚のカードを取り出して
 「ほい、これでいい?」
とそれを運転手の目の前に突き付けた。すると、
 「あ、これは……うーん……」
と運転手はかなり困った顔をして唸り始めていたが、
 「ねー、どうせ時間ないんでしょ。乗せてくれないなら降りて騒いじゃおっかな」
などと少女が言うと運転手はもう参った、と前を向き、
 「わかりました。出発しましょう……」
と発進準備を始めた。深木が乗り込んだ側のドアが自動で閉められたので、深木は急いでシートベルトを締めた。するとすぐに車は何もない田畑の方向へと発進し始める。
 「えーと……あの、ど、どちら様ですか?」
深木は全く状況が呑み込めずに困惑しながら隣に座る少女に尋ねた。すると少女は
 「私? 私は仁勢田真夏。たまにこの辺散歩してるんだ」
とだけ答えた。

これは何?

仁勢田 真夏ちゃん

どうも、Najikoです。新連載!(?)
以前行ったセッションのキャラを登場させたSSを書いてもいいよ、と言われていた気がしたので考えていたのですがそろそろ書けそうなので書き始めます。今回は続きものです。次回もお楽しみに……

小さい花

 前略、Najikoです。日記を書き始めるとあんまりいい話じゃないわたくしですが、今回も例に漏れません。

 少し前ですが、飼っていた猫が1匹亡くなりました。以前記事に書いた、FFXから名前を取ったワッカという猫の姉にあたる、老いさらばえた黒猫のルールーです。

2匹はいつも仲良しでした。

 彼女は19年も生きました。正直、生まれたときから未熟児のようで、ワッカより先に寿命を迎えてしまうだろうと思っていましたが、弟より2年半ほど長生きしました。弟、と言っても猫ですから生まれたのは同日です。ただし、ルールーはお産の直前に歩きながら母猫が生み落とした子で、母猫が羊膜を破って舐めてあげることをしなかったため母猫に認知されていませんでした。死産かと思われましたがわたくしが当時「今動いた」と言ったことで、わたくしの父と母が懸命に保護し、結果的に小さいながらも健康な猫に育ったのでした。母猫に認知されていなかったため、母乳を飲ませてもらえず前足で払われたりと不遇な幼年期を送りましたが、猫は1年で成猫になるもの。1歳になる頃には小さいながらもしっかり健康なメスの黒猫に育ちました。

 彼女もまた、他の猫同様わたくしによく懐きました。母猫に似て非常に頭がよく、押し下げるタイプのドアノブはジャンプして開けられるし、高齢になってもずっと、要求があるときは人間に向かってしっかりと何かを訴えるように鳴く猫でした。また、これも母猫に似ているのですが人間の食べ物を欲しがるので魚を焼いた日などは持っていかれないように気をつけなければなりませんでした。しかし、今やその心配もありません。もう彼女はいないのです。うちでは他にまだ2匹猫を飼っていますが、かれらは人間が魚を焼いても興味を示さないし、夕方お腹が減っても鳴いて訴えてきたりしないので、正直言って寂しいです。体は小さかったけれど、存在感は大きい猫だったわけです。

 わたくしが子どものころから生きていた大事な家族。わたくしがどんなだらしない大人になっても、彼女もまたワッカ同様にずっとわたくしに寄り添ってくれました。それが年老いて、亡くなる前にもなれば元々小さかった体はいよいよ痩せ細り、だんだんと物も食べられなくなり弱っていきました。亡くなる当日の朝は、もはやわたくしの呼びかけも聞こえていないような様子でしたが、わたくしは勤務なので出勤しなければなりません。その日の昼休み、家にいる母に電話をかけるのをためらっていると母の方から電話がかかってきて「そろそろ危ないかも知れない」と言われました。薄々覚悟はしていましたがいよいよまた嫌な現実を受け入れる段階に来てしまったな、と思いつつ、仕事を終えて退勤すると、彼女はわたくしがいつも使っているこたつの下に横たわっていました。まだ息はありましたが、その時は今夜越せないかも知れないな、と考えていました。わたくしは彼女を撫でながら家に帰ってきたこと伝えると、もう目も耳も利いていないような素振りでしたが、彼女は手足を動かして立ち上がろうとしていました。わたくしは少し抱き寄せてやりましたが、姿勢も保持できないので横にしてあげて、もう頑張らなくても大丈夫だと伝えました。それからしばらくして、体を撫でているともう一度手足を動かしたので、再度呼びかけるとやがて呼吸が止まり、静かに息を引き取りました。母は日中、(わたくしが)帰ってくるまで頑張りなさい、と呼び掛けていたそうですが、実際に彼女はわたくしが来る場所で、ずっと待っていました。反応は鈍かったものの、多分彼女は母の言ったことを理解していたと思います。犬はよく、あまり賢いせいで別れが余計に辛くなるといいますが、猫も一緒です。

 翌日、車で火葬してくれる業者に頼んで火葬してもらいました。ワッカを火葬したときと同じ業者です。しかし何やら予定が混みあっているらしく、夜の10時まで待たねばなりませんでした。わたくしは休みを取っていたので、日中は冷たく硬くなった彼女を見て触って、名残惜しんでいました。火葬の際には体を清めて、口を濡らしてあげて、前足に数珠をつけて、一緒に火葬するエサや布のオモチャも置いて……最後に、彼女の長い尻尾を体の方に寄せてあげましたが、死後硬直しても尻尾は硬くならず、生前と同じような感触だったのが忘れられません。骨も拾って、骨壺に入れてもらいました。小さく高齢の猫にしては立派な骨格だったそうです。雪の降る、寒い夜でした。

 今は骨壺をワッカのものと一緒に並べて、写真を置いて、花を添えています。今日もわたくしは小さな花を買ってきて小さな花瓶に差しました。小さくて可愛らしい花を見ていると、ルールーも小さくてかわいい猫だったことを思い出してとても悲しい気分になりました。彼女のための花なのに、複雑な気分です。でっかくて立派な花よりは、彼女の小さな前足でちょいちょい揺らせるような小さな花の方がきっといいだろうな、と思ったりもしましたが、考えてみれば虚しいものです。死んでいなくなってしまった者にしてあげられることなど、もうないのです。宗教の教えなんかは信じなければわたくしには何の関係もありませんし、生前のことをいくら悔いても同様に意味がありません。それでもわたくしは花を買って添えました。一見矛盾しているようですが、多分それはわたくしを愛してくれた家族への感謝を忘れないようにするためには必要なことなのだと思っています。願わくば彼女が、死後ワッカと再び巡り会えていればいいなとか、わたくしも将来あの世ではもう一度会えるのだろうかとか、考えないではないですが、それを心から信じられるほど21世紀は暖かな時代ではないでしょう。けれど、別にいいんです。少なくともわたくしが生きている限りは、一緒に過ごした家族の思い出と感謝の気持ちは失われずに済むのですから、きっとそれだけで十分なのだと思います。こうして書き残しておけば、ブログがある限りは読み返して思い出すこともできます。

 ありがとう。さよなら、わたくしの大事な家族。もうきっと会えないけど、一生忘れないからね。

怱々。

彼女の秘密の計画

 「いやー、今週からは楽しくいきましょう」
赤森はそう言うと、ポーチに詰めてきたお菓子を面談室のデスクに並べ始めた。
 「ええ、まあいいでしょう。わたくしも半分そのつもりですから」
安物の電気ポットでインスタントコーヒーを淹れながら名治子は苦笑いしていた。

 前回のセラピーから1週間、クライアントの赤森の荒唐無稽な妄想、幻覚がほとんど事実に基づいていたことをセラピストの名治子が確認したセラピーの次の回の様子である。以前よりは随分とリラックスした雰囲気で、狭い部屋のデスクをカフェのカウンターのようにしてお菓子をつまみ、極めて庶民的な香りのコーヒーを嗜みながら2人は語り合っていた。
 「今日はわたくしから尋ねてもよろしくて? 先週聞きそびれて少し気になったことがあったので」
名治子がそう言うと、赤森は嬉しそうに
 「なんでもどうぞ。私の言うことはどれもまさに”ここだけの”話ですから」
と答えた。名治子はほくそ笑みながら
 「では遠慮なく……尋ねたいのはあなたが頻回には話さなかった1つのエピソードのことです。その、免許を取ってから1か月後くらい……今からだと先々月くらいの出来事だったかしら」
と話し始める。赤森はクッキーを口に含んだまま、
 「おふ、あの日のことですか。私にとっては奇妙で楽しい1日でしたが、安藤さんともクトゥルフとも直接の関わりがない話ですから、先生は興味を持たなさそうだと思ったのですが」
と懐かしむような表情で話した。
 「ええ、まあビヤーキーが宇宙空間を簡単に行き来して地球までやって来ているという事実だけでも十分にとんでもない話ではあるんですが……あなたはその日、幻覚ではない2匹のビヤーキーを追う過程で「深きものども」と呼ばれる存在と邂逅した……そうですね?」
名治子はやや神妙な表情を浮かべて赤森の方を見ながらゆっくりと確認した。
 「はい。正確には「深きもの」と人間のハーフの少年と、純粋な「深きもの」1体ですね。……まあ純粋な方の「深きもの」は私がビヤーキーに乗って突っ込んだ衝撃で跡形もなくなってしまったんですけど」
赤森は多少申し訳なさそうに言った。名治子は、
 「そちらについては仕方がありませんが……あなた、たしかその頃って社用車をぶつけたばかりでしたよね? ビヤーキーにせよ自動車にせよ、無謀な運転はいけませんよ。あなたが未だ人間をひき殺していないのは単なるラッキーであって……」
とまで言ったが、
 「それは余計なお世話ですよ先生。車の方は無謀な運転をしてぶつけたわけではありませんし……乗るたびにちょっとずつ上達してますから。ほら、免許取るまでの経験では完全に運転できるようにはならないから初心者マークなんてものがあるんじゃないですか」
と、熱心に自己弁護をする赤森に遮られた。名治子はコーヒーを少しすするとすっかりあきれ顔で
 「わたくしが大学で講義しただけのことはありますね、その機関銃のような言いくるめ……消し飛んだ純粋な「深きもの」はともかく、そのハーフの少年の方と……「深きもの」と敵対していた矢野さんと言いましたか。その上級ビヤーキーの方を説得するのにも一役買ったんでしたよね。鼻が高い、と言って差し上げましょう」
と言った。赤森はにこにこしている。
 「わたくしとしては、あなたを心配すると心労が募るのでよくないのですがそこはひとまず置いておくとして……そのハーフの少年。深木と言いましたっけ。わたくしが興味を持っているのは彼の方です。精神力で「深きもの」への完全な変性を抑え込んでいるという」
名治子は再び神妙な顔つきにもどり、そっぽを向いて考えこむようにして言った。
 「はい。深木くんは暗い海の底からの呼び声にも抗い、ヒトであることを選んでいました。一生涯抗い続けなければならないのは、当人にはあまりにも過酷なことですが……人間として最も崇高な選択だと私は思います」
それまで飄々としていた赤森もこの話にはさすがにしんみりとした口調になった。
 「……そう言う割にあなた、彼を説得するときひどく挑発したんじゃなかったですか? ビヤーキーと彼とでは生物としての格が違うとかって……いけませんね、優位に立つと挑発的な態度を取るのはあなたの悪い癖です。それでは交渉術に花丸はあげられませんよ」
名治子はまた少しあきれ顔で赤森を諫めた。
 「まあまあ、お説教はよしてくださいよ。最後はちゃんと彼に寄り添って懐柔に成功したんですから……それに事情を知ったのは説得が終わった後ですし」
赤森は大して悪びれる様子もなくそう言い放った。
 「うーん……いや、いいでしょう。及第点は差し上げます。そもそも交渉の仕方については本題でも何でもありませんから。それよりもわたくしは彼の性質に興味があるのです。肉体が変性して別種の生物に変わる……まあ、2種類以上の生物の遺伝子を1個体が持つことは珍しくはありません。交雑種、モザイク、キメラ……その辺はわたくしより医学の心得を持っているあなたのほうが詳しいでしょうけど、知的生命体が全く違う生物に置き換わるなど当然前例がありません。そのとき性格や思考がどのように変化するのか。INCTの研究の到達点である、脳と完全に接続された機械……脳以外が機械に置き換えられた存在。すなわちサイボーグの研究にも繋がる極めて貴重な存在です」
名治子は一層不敵な笑みを浮かべながらそう話した。
 「私も多少近いことを考えて……彼を研究所に招こうとしましたが、断られてしまったんですよ」
そう言って赤森もコーヒーを一口すする。何か、嫌な予感がした。
 「とても残念です。わたくしの研究次第では彼を苦痛から救うこともできたかも知れなかったのですが」
名治子は笑みを浮かべたまま言った。
 「苦痛から……研究に使った後、彼をサイボーグにしてしまおうというのですか?」
赤森はさすがに眉をひそめてそう尋ねた。すると、
 「いいえ、そうではありません。わたくしのラボで研究しているのは、サイボーグではなく……”アバター”です。生体から機械ではなく生体からデータへ、あるいはデータから別の生体へ、意識を移し替えることができたら。わたくしがVRの体験会へ足を運んだのもその研究のためなのです。彼は肉体と理性が衝突している状態ですが、その意識をデータ化し、別の”ふさわしい”体に移し替えてしまえば……どうです? もう苦しむことはありません」
名治子は心からの善意でその話をしていた。故に、笑顔であった。その笑顔を見た赤森は何かこう、正気を揺さぶられるような衝撃を覚えざるを得なかった。
 「先生、マジですか、本気で言ってるんですか。そうしたら、彼の元の体はどうなるんですか。元の体に残された本来の意識は? 複製することはできても「抜き取る」ことはできないんじゃないですか」
赤森は眉をひそめたまま少し声を荒げてまくし立てた。
 「体が完全に「深きもの」に変性した時点で、元の人格はおそらく保てないでしょう。そうなったら彼の元の意識は”死んだも同然”です。そうなる前のバックアップに彼の理性が存在し、新たな体で新たな時間を刻めれば、そちらが本当の、人間としての「深木くん」だとは思いませんか? ああ、考えただけでも素晴らしい体験です」
名治子はさっきにも増して爛々とした目をしていた。まるで理想を語る少女のように。
 「それは──いや、なんでもありません……どのみち、彼はこの研究所には来ないと言っていましたから……けれど驚きました。先生がそんな研究をされていたなんて。今まで一度も……」
そう言うと赤森は少し嫌な汗をかきながら、それを紛らわすように個包装されたチョコを開けて口に突っ込んだ。
 「フフ、驚いたでしょう。この研究は本当は極秘なのです。ほとんどわたくし一人でやっている研究ですけどね。しかし、わたくしとあなたは「知るべきではないこと」を知ってしまった同士、一蓮托生……どうです、赤森さん。わたくしの計画はもちろん他言無用ですが……あなたは今後も深木くんのような、研究に有用な存在と相まみえるかも知れません。あなたもわたくしもそういった星の下にいるようですからね。ですから、そのときは……」
そこまで言うと名治子はさらにぐっと口角を上げた。その不敵な笑みに赤森はいよいよ生きた心地がせず、
 「わ、わかりましたわかりました。協力します、協力しますよ。他ならぬ先生のお願いですから……」
赤森は今やうつむいて、すっかり元気がなくなっていた。彼女は、もういよいよ後には退けないところに来てしまったことを唐突に自覚した。それも、今までの恐るべき体験ではなく、身近な人の野望を知ることによって。
 「先生……いや、那次博士。も、もう少し……教えていただけますか。その計画のこと」
赤森は慎重に、恐る恐る尋ねた。
 「ええ、もちろんですよ。お話ししましょう……わたくしの全てを賭けた”Nuj計画”について──」

これは何?

 はい、先日の記事同様にクトゥルフ神話TRPGのセッションで扱った内容を元に書いたSSみたいなアレです。

那次博士

 セッション内では赤森の方がはっちゃけているというか、急にふざけ始めるタイプの人物で、那次名治子は赤森ほどはふざけなかったのですが、実際にはこっちの方がヤバい野望を秘めていた……というお話でした。

 「Nuj計画」とは何なのか? それは今後語る機会があるかも知れないですし、ないかも知れないですが……この単語自体は、VRCでV戯王のカードを作っている頃から考えていました。まあ、セッションに持ち込むほどの大それた話ではない(?)ので継続探索するにしても別に影響はないままいきます。今のところクトゥルフ神話TRPGのセッションで使っているキャラクターは全員この名治子と関係のあるキャラクターだったりするんですけどね。ロストしない限り遊び倒します。

 今回はそんな感じです。実を言うと、昨日の夜勤の日の夜から(ブルアカのエデン条約編を読んでいたせいで)1日眠れていないので、これを投稿したらそっとオフトゥンに入ろうと思います。
それではごきげんよう。うぅ、ミカ……(就寝)

あるセラピストの憂鬱

 「先生、今日は随分熱心に私の話を聞いてくれるんですね」
面談室と書かれた部屋の中、やや不思議そうにそう言ったのは丸椅子に座った赤森珠子──人の脳と機械を接続する研究を行う秘密結社、ここ「INCT」に所属する医学研究助手の女性だ。赤い髪を後ろで結んだ25歳の彼女は、2年ほどここに勤めている。
 「ええ……いえ、わたくしはいつでも熱心でしたよ。ただ、何度もあなたの話を聞いているうちに、理解が追い付いたというか……本質的な興味が深まった、というべきでしょうか」
赤森と向き合ってデスクの傍らの椅子に腰かけ、全体的に短いが左目にすっかりかかった緑色の髪を指先で撫でながらそう答えたのは、那次名治子──INCTの心理学研究員兼セラピストの女性である。現在は33歳で、以前大学の心理学講師をしているときに知り合った赤森をINCTに勧誘した人物でもあった。
 「今まではあまり興味がなかったってことですか? 正直心外です。最初にこの話を先生にしたら急に休職させられるわ、カウンセリングだかセラピーだかまで受けさせられて……私はずっと正気なんですからね。まあ、先生にじっくりお話ししたいことでしたからいい機会ですけど」
赤森が少しむくれながらそう言うと、名治子は顎に手をあてて目を瞑り、しみじみと思い出すようにして
 「わたくしの判断が間違っていたとは今でも思えませんけどね。そりゃセラピーでも何でも始めますよ……えーと、最初は夢の中で狭い施設に閉じ込められて、かの古代ギリシャの医神、イガクス・カンゼンニウス・リカイシウスと、あと自転車屋の安藤さん……そう、安藤さんですよ。彼らと協力して最後はみんなで毒をかっ食らって死んで目が覚めたんでしたよね」
名治子は改めて思い出した話の内容が相変わらず荒唐無稽すぎて、普通なら盛大に眉をひそめたくなるところだった。だがプロのセラピストの矜持から顔には出さないようにしつつ、赤森から何度も聞かされたその話を静かにおさらいしたのだった。
 「大体その通りです。あと、色白な女の子もいて、彼女も一緒に毒を飲んだらしいんですが、今は安藤さんの近所に住んでるそうですよ。それと、ほら、あのネットでよく見る有名youtuberの」
赤森がそこまで言うと、
 「ああ、もう結構ですよ。大丈夫、ちゃんと記憶してます。その辺のことはいいんです。安藤さんが”あの”安藤さんだということが確認出来ればそれで」
名治子は赤森の話を遮ってそう言った。
 「間違いありませんよ。体と顔に目立つ傷がある、大柄な自転車屋さんです。まさか彼が末峰コーポレーションの最新VRゲームの一大デモンストレーションに、先生と一緒に参加されていたなんて……いったいどういう偶然なんですか。配信されていた映像を見て唖然としてしまいましたよ。大体あの、クトゥ」
赤森が早口でそこまで言うと、
 「ええ、ええ、そうなんです。そうなんですよ……先日の体験会は本当に大変な……いえ、大変に素晴らしい催しでした。大変すぎて体験レポートを職場に提出するのに今も苦慮しているところです。ええ。でも、”あのあれ”のことはもう少し置いておいてください。わたくしもセラピーを受けたいくらいなんですから、ホントに……しかし、彼……安藤さんの実在をわたくしがこの目で確かめてしまった以上、あなたの話は疑いようがなくなりました。何より安藤さん自身、あなたのことを知っていて、同じ体験をしたというのですから、もうあとはあなたたちが結託してわたくしを陥れようとしているのでなければ、このようなことはあり得ません」
名治子はまた赤森の話を遮りながら、半ばうんざりしていよいよ観念したような口調で言った。
 「もちろん、私は先生を陥れたりなんてしませんからそれはあり得ません。でも安藤さんのおかげでようやくしっかり話を信じていただけたみたいで、私は満足です。そして、次の出来事は安藤さんとは関係ありませんが……内容は覚えていますよね?」
赤森はかなり得意げな顔でそう詰めてきた。名治子はすっかり立場が逆転したことに呆れつつ
 「はい、もちろんですとも。この際仔細は省きますが……星間航行をして地球を救ったんですよね? その、あれです……大いなる、”クトゥルフ”という怪物から。そのときに友達になった”ビヤーキー”という生き物が今も見える、と言っていましたね?」
と、右手で後頭部をポリポリ搔きながら慎重にそう確認した。
 「その通りです。あの出来事からもう3か月ほど経って、ビヤーキーたちは見えなくなりましたが。多分、元いた星に帰ったんだと思います。呼び出そうと思えばまた呼び出せるんですけどね」
赤森はまた随分と誇らしそうにそう話した。
 「お願いですから実行しないでくださいね。そのときはわたくし匙を投げますから。色々と。そんなことより問題なのは、そのあなたが見えていたものも、件のクトゥルフという怪物も、この本に載っているということです」
名治子はそう言って、デスクの傍らに置いてあった書籍、”Call of Cthulhu”を手に取った。
 「え、両方載ってるんですか!? ちょっと見せてくださいよ」
赤森はそう言って手を伸ばしたが、名治子はスッと書籍を遠ざけた。
 「これは無暗に開くと、気分が悪くなる危険な本なのです。あなたの病状……いえ、ストレスをこれ以上増やすわけにはいきませんので……ただ、載っていることは間違いありません。配信されていたこの前の体験会の映像で、わたくしがゲームのラスボスとして戦ったクトゥルフは……その、あくまでも、あくまでもゲームの中での話ではあるのですが、特徴があなたの話に出てくるものとよく一致します。そして、ビヤーキーという生き物についても書かれている内容とあなたの話が大体一致しているのです。この本がそもそも何なのかはさておき……これであなたの話は全て真実だとわたくしは信じることにしたのです」
名治子は嘘をついていた。彼女が遭遇したクトゥルフは、確かに末峰の作ったゲーム内にも登場はした。しかしそれとは別に、配信などされていない、彼女を含めた5人の参加者しか知らないあの時、あの場所で、彼女は本物のクトゥルフと同等の実像に遭遇していた。思い出すと今でも嫌な汗が噴き出してきそうになる。当然、名治子は自分が見たもののことは黙っていた。一方、赤森が見たというクトゥルフも、まだ完全に復活した姿ではなかったようだが、名治子が見たそれと似た特徴を備える同一の存在であったことは間違いなく、それが赤森の話の信憑性を彼女の中で殊更高めていた。
 「私も読みたかったんですが……まあ、いいです。ともあれこれで私が妄想や幻覚に囚われている、というわけではないことがよくわかりましたよね。ということは、これで私はもうセラピーを受けなくてもいいんじゃですか? 先生」
赤森がそう言うと、名治子はまた目を瞑り、ふーっと息を吐いて呼吸を整えた。そしておもむろに目を開き、
 「そうですね……あなたが体験したことが事実であるとわかったら、一層ケアする甲斐が出てきました。そんな体験をして心に傷を負わないはずがありませんから」
と言い、冷めたコーヒーを一口すすった。
 「えー、そんなー」
そうは言っても赤森はまんざらでもない様子だった。彼女の話を真実として聞いてくれる人物など後にも先にも名治子くらいのものだからだ。それで少し安堵している赤森とは裏腹に、名治子は暗澹たる気持ちだった。願わくば、そんな体験が真実であって欲しくはなかったとさえ思う。ともすれば我々は奇妙な縁を通じて、「人類が知るべきではない真実」の扉を開いてしまったのではないか。その開きかけた見果てぬ深淵の扉から、手元の本に載っている名状し難い魑魅魍魎が這い出てくる様を思うと、多少気が狂いそうになる。だがこれは、人類がこれから目の当たりにするであろう恐るべき数々の物語のほんの序章に過ぎない。そして、今は彼女がそれを知る由はないのだ──

これは何?

 どうも、ほぼ月刊Najikoのライター、Najikoです。この前行ったクトゥルフ神話TRPGに登場させたわたくしのプレイヤーキャラクターが別々の場所で面白い繋がりに恵まれた(?)のでシナリオ終了後のやりとりを勝手にSSっぽく書きました。いいよね、こういうの(いいか?)

那次名治子(なじなじこ)

 はい、今回の新キャラはズバリ、わたくしです。けどこのブログのアイコン?にもなっているNajikoは一応学生服みたいの着てますけど、こちらの名治子は33歳の心理学研究員。33歳には見えないって? 美魔女なんじゃないですかね(適当)。例によってこのイラストもAIで出力したわけですが、promptを1girlではなく1ladyから始めるなどそれなりに33歳みが出る工夫はしたんですよ。その証拠に、ほい。

たぶん若い頃

 同じpromptから出たイラストでもこっちは少女っぽいですよね。まあ、そういうことなので33歳です。

 この名治子というキャラクターは前回のセッションに登場させた赤森珠子という女性と知り合い、という設定があります。それだけなら特になんてことないフレーバーだったのですが、実は今回は1回目に赤森が登場したシナリオで同席した安藤というキャラクターの継続探索であったため、「赤森が名治子に話したことの中に安藤の名前があり、それを妄想だと思っていた名治子が後日、本物の安藤と出会う」という衝撃のストーリーが出来上がってしまったわけですね。それを書きたかった。そんだけです。セッションは今回も最高に楽しかったです。詳しい内容についてはここでは書かないですけど、最終戦のイベントでNPCに「もう勝てっこないよ」とダメポイントを指摘される場面でダイス目がダメだった結果発生した出来事を的確に指摘されていたのがめちゃ笑いましたね。例の安藤さんは手が震えてめちゃくちゃ自傷ダメージを負っていました。普通に気の毒。キーパーのクラゲさんも、サブキーパーのはむさんも、一緒に参加された4名のプレイヤーの皆さんもお疲れさまでした。ありがとうございました。

 今回も豪華な表情差分を用意しました。実際にはこんなに使わないんですけどね。わたくしはテキストベースでセッションに参加しているので、使うかはともかく差分を用意しておくと楽しくRPができます。地味に透過が大変です。

 赤森さんを再掲。こっちは6パターンですが、このくらいがちょうどいい気がしますね。しかし、こんだけ用意してもそれほど手間にならないんだから本当に恐ろしい時代です。

 今回はそんなところです。今回のセッションは本当は別のキャラを出す予定だったのですが、今後ロスト可能性の高いシナリオをやるようなときに名治子を出してロストしたらイヤだな、と思ったので早めに登場させておきました。とても楽しめました。では、「最高のVRゲーム」、VRCでまたお会いしましょう。